2016年12月22日

映画『死刑台のエレベーター』ヌーヴェルヴァーグの意味/解説・あらすじ・ネタバレ・ラスト

ルイ・マルの見た世界



評価:★★★★  4.0点

このルイ・マル監督の若干25歳の劇映画デビュー作は、犯罪映画=フィルム・ノワールとしての力と共に、ヌーヴェルヴァーグの鮮烈さを保持したフランス映画らしい作品だと感じる。
この映画のデザイン力の高さ、イメージの洗練に寄与しているのが、ジャズ・トランペッターのマイルス・デイヴィスの演奏であるのも間違いない。

<死刑台のエレベーターあらすじ>

武器商社に勤めるジュリアン・タベルニエ(モーリス・ロネ)と社長夫人フロランス・カララ(ジャンヌ・モロー)は不倫関係で、共謀しシモン社長の殺害を計画した。実行の日、ジュリアンはバルコニーにロープをかけ社長室に侵入し、社長を射殺し自殺と見せかけ、鍵を閉めて密室を偽装し完全犯罪が達成されたと思い、夫人との待ち合わせ場所に車で向かおうとする。その時、殺人現場にロープが揺れているのを発見し、車に鍵を刺したまま急いでビルに戻り、エレベーターに乗り社長室に向かう。しかし、土曜日の午後でビルの管理人が電源スイッチを切って帰り、エレベーターの中に閉じ込められるジュリアン。フロランスとの約束の時間はどんどん過ぎ、彼を待つフロランスは焦燥にかられ、彼を求めて夜のパリをさがしまわる。
一方、花屋の売り子ベロニック(ヨリ・ベルダン)とチンピラのルイ(ジョルジュ・プージュリー)はジュリアンの車を盗みハイウェイを走るうちに、ベンツのスポーツカーと競争を始め、あるモーテルにたどり着く。そのスポーツカーで旅するドイツ人夫婦と、親しく一夜を過ごす。ルイとベロニックは明けがた、ドイツ人のスポーツ・カーを盗もうとして見つかり、彼等を射殺しアパートに逃げ帰る。しかし、死刑は免れないと催眠剤を飲み心中をはかった。しかし、ドイツ人夫婦の殺人は、小型カメラ、拳銃など遺留品から犯人はジュリアンだとして手配された。日曜の朝、エレベーターが動き出し外へ出たジュリアンは、警察に逮捕される。
フロランスはジュリアンが事件を起したとは信じず、車に乗せていた娘が花屋の売り子と知り、彼女の部屋に行き、薬でフラフラな二人を発見し警察に通報するが悪戯だとして取り合わない。真犯人ルイは、唯一の証拠のカメラとフィルムを隠滅しようと、モーテルへ向かう。それを見てルイを追うフロランス。
しかし、モーテルには事件を追う刑事シェリエ警部(リノ・ヴァンチュラ)が捜査のために来ていた・・・・・・

(フランス/1957年/88分/監督ルイ・マル/脚色ルイ・マル ,ロジェ・ニミエ/原作ノエル・カレフ/音楽マイルス・デイヴィス)


<死刑台のエレベーター感想・解説>

この映画で、映像として伝わる情報が観客に語るのは、あらすじで書いたような殺人であり、思いがけないなりゆきの事件であり、サスペンスの果ての急転直下の結末だ。

sikei-nero.jpgしかしその犯罪の意味するモノは、「愛」という実体を持たない精神作用が、遠く隔たっていても人を動かし事件を起すと言う真実だったろう。
愛のために殺人を犯したモーリス・ロネ演じるジュリアンは、エレベーターの中で俘囚となり身動きが取れない。

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愛のために殺人を依頼したジャンヌ・モロー演じるフロランスは、愛する者を求めて夜通し街を彷徨する。

この二人が表わしたのは、愛という「虚空の宝石」を現実世界で実体化することの困難さだった。

それはいわば、人間意識が生み出した非物理的な力である「愛」が、現実世界を動かそうとする事の不自然に対し現実世界が復讐する物語のようにも見える。

この映画は、こういう形で表面上の犯罪ドラマの背後で、哲学的な観念を語ろうとする。
そんな表面上の物語の背後で、もう一つの観念的な物語を表出しようとする映画こそ、ヌーヴェルヴァーグという映画スタイルの本質ではなかったか・・・・

ヌーヴェルヴァーグ
mibu-katinko.jpgフランスの若手監督達による、1950年代末から1960年代中盤にかけて制作された若い作家の作品を指す。狭義には映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの影響下の若い作家達(カイエ派もしくは右岸派)の作品を指す。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェなどが代表的監督として知られる。また、モンパルナス界隈を拠点としたヌーヴェルヴァーグ左岸派と呼ばれるドキュメンタリー映画を出発点とするアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュ等の作家がおり、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェル・ヴァーグと総称することが多い。

このヌーヴェル・ヴァーグ運動が切り開いた世界とは、戦前から始まるネオ・リアリズモが「現実世界=神なき人間世界」の不条理を追求したとすれば、その一歩先にある「人間が認識した世界こそ現実」に他ならないのだという、冷酷な諦念だと思われる。(下写真:ルイ・マル)
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例えば、この映画が古典的な「神の世界観」から語られれば、
勧善懲悪の物語として成立すべきだった。


例えば、この映画を「ネオ・リアリズモ」から語れば、
悪を犯さざるを得ない人間の悲惨な現実が描かれるだろう。


しかし、この映画では世界が偶然や無計画に出来ていると、その思いがけないストーリー展開で表現する。
そして、その偶然が作り出す予測不可能な世界で、人は自らの意思によって選択・行動する姿が語られる。
その結果として、世界によって翻弄され裏切られる人間存在が描かれるのだ。

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これを整理すれば、世界とは混乱であり、人がそこを生きるためには、自ら認識し関与する事で世界に意味を持たせなければならないという事実だ。

つまり、過去の物語は多かれ少なかれ、世界は人間の外にあって意味を持って成立していた。
しかし、この映画においては、世界には意味はなく、その意味は「人間が世界との関係で、作り出す」のだと語っているのだ。

この事が告げるのは、一個の人間が一個の意識を持っている以上、人間の数だけ違う世界が成立する事を意味するだろう。

この映画における「愛=人間の認識した世界」を巡る結末が四者四様なのも、端的に一人一人違う愛を生きているからに違いない。

そういう意味でこの映画は、現実世界が個の認識により成立していることを鮮烈に描いたヌーヴェル・ヴァーグ作品として際立っていると考える。
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ヌーヴェル・ヴァーグの本質が「作家主義」だと言う時、即ち作家個々が世界をどう認識したかを映画にする運動であったと思えるからだ。

実を言えば、この作品も、ルイ・マルも、ヌーヴェル・ヴァーグの中に位置づけられてはいない。

しかし、再び言うが、現実世界は個の認識により成立しているのだ。

sikei-erete.jpg
そして、その一個の認識に基づく世界を生きるがゆえに、他の70億以上の人間の世界と相容れず、現代人は必ずこの映画で描かれたように、失敗を犯す。

それゆえ私の認識世界では、この映画はヌーヴェル・ヴァーグを代表する一本として確立されており揺らぎようが無いが、もちろんそれは私の誤りであるに違いない。

マイルス・デイヴィスの『死刑台のエレベーター』テーマ曲

マイルス・デイヴィスはこの映画のラッシュを見ながら、この曲を演奏した。それは、事前に練習もなければ打ち合わせも無い、即興性に富んだものだった。その演奏方法こそは、次に何が生まれるか解らない「世界の突発性」に人間意識が意味を持たせる瞬間だったろう。

関連レビュー:ヌーヴェルヴァーグ解説
『勝手にしやがれ』
ジャン・ポール・ベルモンドとジャン・リュック・ゴダール監督
ヌーヴェルヴァーグの開幕

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以降「死刑台のエレベーター・ネタバレ」を含みますので、ご注意下さい。
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若い二人のカップルは自分達の犯したドイツ人殺害が、一晩エレベーターに閉じ込められアリバイの無いジュリアンの犯罪とされているのを知り、唯一の証拠はドイツ人と一緒にモーテルで撮ったスナップ写真だけだった。
sikei-sya.jpg
証拠の隠滅を図り、フィルムの現像所にチンピラのルイは急行する。
そしてその後をジュリアンの無罪を証明する証人を逃すまいと、フロランスが追う。
しかし、既に時遅くシェリエ警部が印画紙に焼き付けられた証拠の写真を見ており、ルイは逮捕される。
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死刑台のエレベーター・ラストシーン
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もともとジュリアンの物だったカメラには、若いカップルの写真の他に、フロランスとジュリアンが抱き合っている写真があり、社長殺害の真犯人がジュリアンである事が判明する。
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【エンデイングのセリフ】
シェリエ警部:ジュリアンは10年で出てこれるでしょうが、奥さんには陪審員も厳しいでしょう。20年か30年は覚悟するんですな。
フロランス(ナレーション)二人が離れ離れになって、私は牢屋で10年20年と歳をとる。
しかし写真の中の二人は永遠に変わらない・・・・・・・
FIN

この映画に登場した四人の恋人達―
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チンピラのルイはドイツ人夫妻殺人で死刑となるだろう。
花屋の売り子ベロニックは微罪で社会に復帰するだろう。

elevato-jyanHug.jpg
ジュリアンは社長殺しで懲役10年と語られている。
フロランスは懲役30年の刑を科せられる。

この四人を共通して動かしたのは「愛」という人間感情だった。
にも拘らず、現実は各々違う結末を突きつけたのだ。

つまりは一人一人違う個性が現実と対峙する時、人類の数だけ違う現実が存在し、その衝突の必然として人々は予め失敗が約束されていると思うべきなのだろう・・・・・・

そういう意味では、全ての人間は「死刑台のエレベーター」に乗っているのであり、そこから降りる術はない。

唯一の希望は、ラストの写真のように、無から生じる人々の幻想を共同化して定着することに違いない・・・・・・それを映画と呼ぶこともできる。

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posted by ヒラヒ at 17:12| Comment(4) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは(ФωФ)何かややこしい話ですね。25才❗やはり年齢関係なくすごい人はいますよね😱おフランスは観たいですわ〜☕
Posted by ともちん at 2016年12月22日 20:39
あれ?見たことある(・・;)と思ったけど絶対見たことないですね。
1958って・・絶対無理(笑)
なかなか良い作品のようですね。
Posted by いごっそ612 at 2016年12月22日 21:02
>いごっそ612さん
ありがとうございます(^^)古くて恐縮です(^^;
映画史を飾る一本ですので、地道にアクセスがあるのではないかときたいしてますm(__)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年12月22日 21:23


>ともちんさん
ありがとうございます(^^)ややこしいです〜。
この当時1950〜年代は古い映画界を打破しようという運動で、若い作家がいっぱい出て来たころです。「勝手にしやがれ」のころですね(^^)
Posted by ヒラヒ・S at 2016年12月22日 21:27
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