2018年06月16日

実話問題作『愛のコリーダ』阿部定事件を描く「超」猥褻映画/あらすじ・解説・ネタバレ・猥褻裁判

「コリーダ=闘牛」に込められた原初的な祝祭空間

英語題 In the Realm of the Senses
製作国フランス・日本
製作年 1976年
上映時間 104分
監督・脚本 大島渚

評価:★★★★★  5.0点



この映画は世界中で猥褻物芸術かの大論争を巻き起こした。
昭和11年に起きた“阿部定事件”を題材にしたこの作品は、何せ男女の性愛のシーンが全面を覆い尽くしているし、外国版であれば男女の局部が露で、映写時間の7割は裸で男女の営みを見せているのだから、これを現在の規範に照らせば猥褻である事は間違いない。
実際日本では、猥褻とする国の判断により、裁判となり法廷で裁かれもした。
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<目次>
映画『愛のコリーダ』感想
映画『愛のコリーダ』解説・阿部定事件
映画『愛のコリーダ』解説・猥褻裁判
クインシ―・ジョーンズ名曲『愛のコリーダ』紹介

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映画『愛のコリーダ』あらすじ

昭和11年、東京中野の料亭「吉田屋」を舞台に、吉田屋の主人吉蔵(藤竜也)と阿部定(松田英子)の二人が出会い、定が吉蔵に一目惚れする。吉蔵も定に惹かれ、二人は吉田やのそこここで密会を重ねていく。その関係が露見すると、二人は料亭を出奔して、待合に入り浸り酒や芸者をよびつつ、昼夜を問わずに体を求め合った。二人は待合の一室で貪るように愛欲生活を送った。二人の愛戯はエスカレートし、お互いの首を締め快感を高めるのが日常化していた。しかしある日、定は吉蔵の首を強く絞めすぎ、死ぬ寸前まで行った。定の介抱も実らず、吉歳は一旦、「吉田屋」に帰って養生すると定に伝える。しかし、定は吉蔵を自分一人のものにするため、吉蔵を殺す決意をする・・・・・・・・・・・・・・・・・

映画『愛のコリーダ』予告



映画『愛のコリーダ』出演者

吉蔵(藤竜也)/定(松田暎子)/吉蔵の妻(中島葵)/老乞食(殿山泰司)/幇問(松廼家喜久平)/「満左喜」の芸者(小山明子)

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映画『愛のコリーダ』感想



しかし考えてみれば、ほぼ成人した男女がすべからく成すべき行為であってみれば、それを衆目に晒す事が猥褻というのであれば、その事象を明示するか秘匿するかによらず、人という存在自体が猥褻だという事になるであろう。
このような人間存在の根本に或る命の奔流を、俗で猥雑なものと見なすのは、ひとえに西洋キリスト教の聖=神と俗=人間の二分律の下で人間本来の在り様を歪められ曲げられてしまったためである。
少なくとも江戸期までの日本において男女の交合は決してここまで隠蔽すべき行いではなかった。

ainokori-da.jpgそもそも、人が人を愛するというとき、純愛と性愛の区別に何ほどの意味があろうか?
人は他者を求めるとき、相手の全存在を我が物と成すまで狂おしく希求されずに、それを愛と呼べようか?
この映画で繰り広げられる、男女の行為とは相手を完全に己の内に取り込み一体化しようとする、神々しい祝祭ではないか?

その、お互いの歓喜に到る道は、愛する二人にとって誰はばかる事のない最も至高の融合ではないだろうか?

しかしこの映画においては、その歓喜に至る行為を、お互いの寿命の全てにおいて交わす事を許されず、急き立てられるように短期間のうちに燃やし尽くされなければならなかった。
そして虚ろに彷徨う運命に導かれるのだ。

この二人の愛の成就、その歓喜の終着点、完璧な一心同体へと至る道を閉ざした悲劇の本質こそ、この映画を見て猥褻だと感じる現代人の非人間的なピューリタリズムに違いない。
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その偏狭で潔癖な規範に則ってしまえば、神に対する愛以外は全て不純で猥雑な行いでしかないだろうし、個人というものは神と一対一の関係を結んだ上で、始めて他者と向き合う事が許されるであろう。

そしてこの映画の舞台となっている昭和初期こそ、上で述べたキリスト教の非人間的な教義を、キリストではない国家というものに擬して、国民を国家以外との契約を結び得ぬように枷を嵌めた時代であったのである。
明治以降の日本において、国家に個人の全てを捧げる事は義務としてあった。

それゆえ、この二人は個としての幸福を欲望を、国家の前で完遂し得ず、時を盗み貪るように愛を交わさざるを得なかった。
この二人の、個人的な欲望の最たる行為に狂ったように没入する姿は、全体主義の中で個人が自らのために生きる祈りであり、自由を求めて閉ざされた聖域を構築しようとする悲痛な足掻きとしてある。

それでも世間という頸木からは逃れられず、人目を避けてすら追い詰められて、ついには彷徨い罰せられなければならなかったのである。
しかし敗れはしたものの、この「過剰な性描写」が意味するのは個としての歓喜、キリストによらない人間存在の神聖を求めて繰り広げられた、崇高な闘争であったと思うのである。

そしてまた、この映画の目撃者にとっても、自らの道徳律を賭けて「聖と俗」の格闘の最前線に立つ事を意味するであろう。

この映画が「聖=芸術」か「俗=猥褻」かの私なりの答えは以上の事で明らかにしたと考える。

しかし更に補足すれば、人の性的欲望を掻き立て奉仕する目的で作られた表現物をポルノだとすれば、どれほどこの映画内の男女の営みが猥褻に見えようとも、この映画の「性愛」は人間存在の原初的な喜びを描くための必要不可欠な表現であったとしか思えない。

そうであれば、これを芸術表現と呼ばずに何と呼ぶべきか、私は知らない。

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映画『愛のコリーダ』解説

阿部定事件

阿部定事件(あべさだじけん)概要
阿部定事件は仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。(写真:事件発覚後の第一報)
abe_photo.jpg事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。
この事件はすぐに国民を興奮させた。
そして彼女の捜索について引き続いて起こる熱狂は「阿部定パニック」と呼ばれていた。瓜実顔で髪を夜会巻きにした細身の女性を、定と勘違いし通報を受けた銀座や大阪の繁華街は一時騒然としてパニックになった。
定が現れたという情報が流れるたびに、町はパニックになり、新聞はそれをさも愉快に書きたてた。この年に起こった失敗した二・二六事件クーデターの引用で、目撃例の犯罪が「試みイチ-ハチ」(「5-18」または「5月18日」)と諷刺的に呼ばれた。「上野動物園クロヒョウ脱走事件」「二・二六事件」とあわせて「昭和11年の三大事件」と呼ばれている。(wikipediaより引用)

阿部定事件・経緯
abesada.jpg阿部定(右写真)は、交際していた大宮五郎の紹介で東京・中野にある鰻料理店「吉田屋」の女中として田中加代という偽名で働き始め、その店の主人・石田吉蔵に惹かれる。吉蔵も次第に阿部定に惹かれ、次第に二人は関係を持つようになり、他人に気づかれないように店を離れたびたび二人で会うようになる。
石田と定は駆け落ちし、待合を転々としながら、尾久の待合旅館「満佐喜」に滞在した。愛の行為の間、定はナイフを石田のペニスに置いて、「もう他の女性と決してふざけないこと」と凄んだが石田はこれを笑った。
二夜連続のセックスの最中、定は石田の首をしめ始め、石田は続けるように定に言った。性交中に首を絞める行為は快感を増すと石田は定に言ったという(窒息プレイ)。

1936年(昭和11年)5月16日の夕方から定はオルガスムの間、石田の呼吸を止めるために腰紐を使いながらの性交を2時間繰り返した。強く首を絞めたときに石田の顔は歪み、鬱血した。定は石田の首の痛みを和らげようと銀座の資生堂薬局へ行き、何かよい薬はないかと聞いたが、時間が経たないと治らないと言われ、気休めに良く眠れるようにとカルモチンを購入して旅館に戻る。
その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。定が居眠りし始めた時に石田は定に話した 「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれ…おまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」と。しかし定は石田が冗談を言っていたのではと疑問に思ったと後に供述している。

5月18日午前2時、石田が眠っている時、定は二回、腰紐で死ぬまで彼を絞めた。定は後に警察で「まるで重荷が私の肩から持ち上げられたように、石田を殺したあと、私はとても楽になった」と供述している。定は包丁で彼の性器を切断した。雑誌の表紙にペニスと睾丸を包み、逮捕されるまでの3日間、彼女はこれを持ち歩いた。そして彼女は血で、シーツと石田の左太ももに「定、石田の吉二人キリ」と、石田の左腕に「定」と刻んだ。石田のステテコとシャツを腰巻の下につけると、定は宿の人間に「(吉蔵は)具合が悪くて寝ているので午後になるまで起こさないで」と言い、午前8時頃に宿を出た。

定は逮捕されると「私は彼を非常に愛していたので、彼の全てが欲しかった。私達は正式な夫婦ではなかったので、石田は他の女性から抱きしめられることもできた。私は彼を殺せば他のどんな女性も二度と彼に決して触ることができないと思い、彼を殺した…」なぜ石田の性器を切断したかは「私は彼の頭か体と一緒にいたかった。いつも彼の側にいるためにそれを持っていきたかった」と供述している。(下/阿部定逮捕時の新聞記事)
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裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年の判決(求刑10年)を受けて服役、1941年(昭和16年)に「紀元二千六百年」を理由に恩赦を受け出所している。(wikipediaより引用)


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映画『愛のコリーダ』解説

猥褻裁判


oosaima.jpgこの作品の脚本と宣伝用スチル写真等を
掲載した同題名の書籍が発行されたが、
その一部がわいせつ文書図画に当たると
して、わいせつ物頒布罪で監督と出版社
社長が検挙起訴された。対する被告人側
は「刑法175条は憲法違反である」と主張
し憲法判断を求めた。しかし、一審二審とも
従来の判例を基本的に維持しながらも「当該書籍はわいせつ物に当たらない」として無罪とした。(wikipediaより引用)

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クインシ―・ジョーンズの『愛のコリーダ』

1980年この映画『愛のコリーダ』に触発された同名の曲を、1981年アメリカの音楽界の重鎮クインシー・ジョーンズがカバーし世界中でヒットした。
クインシー・ジョーンズ「愛のコリーダ」

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posted by ヒラヒ at 17:13| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは(ФωФ)なぜか外国のはカラッとしていて、日本だとジメッと(笑)その新聞の笑顔は怖いです😱異常ですよね、、バーチャルの世界やアイドルで満足してる今の時代をアベさんはどう思うのでしょう。
Posted by ともちん at 2016年11月11日 18:13
>ともちんさん
ありがとうございます(^^)アダルティーな映画でスミマセン。
やっぱり情念がらみは和文化の伝統かと・・・・・安部定さんが求めたのは、好きな相手と永遠に愛し合って一心同体になることで、それがムリだと分かったから殺しちゃったのかと…m(__)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年11月11日 20:20
めちゃくちゃ「阿部定事件」調べてますね!検索でかかるんじゃないっすか?「愛のコリーダ」聞いたことあります。未見ですが、なかなか面白そうですね。
Posted by いごっそ612 at 2016年11月11日 20:21
>いごっそ612さん
ありがとうございます(^^)弱小ブログですので、あの手この手です!検索でかかるとウレシ〜デス・・・・「愛のコリーダ」Youtubeで見れちゃいます・・・・・・m(__)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年11月11日 21:02
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