原題 Fight Club 製作国 アメリカ 製作年 1999年 上映時間 139分 監督デイヴィッド・フィンチャー 脚本ジム・ウールス 原作チャック・パラニック |
評価:★★★★★ 5.0点
いきなりだが、日本の歴史の転換点には、往々にして外圧が存在した。
朝鮮半島における白村江の敗戦によって大和朝廷の中央集権化が進み、鎌倉幕府の崩壊には元寇があり、江戸幕府の終焉は黒船の来航が引き金で、明治以降の日本の歴史とは端的に外圧にどう対処するかの足掻きだったろう。
結局外圧とは、安定した社会を壊す混乱の元凶であり、同時に旧態依然の形骸化した社会を変革する原動力でもあるだろう。

この映画は、そんな安定し同時に変革が求められた「存在」が、「破壊」をテコにして変革を起こす物語だと感じた。
そんなこの映画は、間違いなく傑作だ。

<目次> |

映画『ファイト・クラブ』ストーリー |
主人公(エドワード・ノートン)は、自動車会社の保険査定を任務とするサラリーマン。ノルウェイ製の高級家具に囲まれたエリートだったが、ここ数カ月は不眠症に悩んでいた。そんなストレスが、病気や中毒で苦しむ者の「支援の会」に参加すると、緩和されることに気づく。そんな時、やはり「支援の会」に入り浸る、マーラ(ヘレナ・ボナム・カーター)と出会う。
またある日、出張先の飛行機で主人公は隣の席に座ったタイラー(ブラッド・ピット)と知り合う。出張から帰ってくるとアパートの部屋が爆破され、途方にくれてタイラーに電話する。タイラーは泊めてやるから、自分を殴れという。最初は躊躇していた主人公も、殴る事の快感を知り、お互い殴り合うのが常態化して行く。そんな日々を重ねる内に、次第に見物人が増えていく。ついには観客も殴りあいに参加しだし、タイラーは「ファイトクラブ」の設立を宣言する。
また、タイラーはエステサロンから盗んだ人間の脂肪を加工し、石鹸を作って売っていた。同時にその材料で爆弾も製造できるのだった。そんなタイラーはマーラを呼び出し、激しくお互いを貪りあった。「ファイトクラブ」はますます会員が増え、全国に支部も創設された。今やクラブは殴り合い以外にも、騒乱とテロを目的として組織化された。タイラーはついにビルを爆破する計画を立て、実行に移す。そんなタイラーを阻止しようと主人公が走り回るが、そこには驚愕の事実が隠されていた・・・・・・・
映画『ファイト・クラブ』予告 |
映画『ファイト・クラブ』出演者 |
主人公(エドワード・ノートン)/タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)/マーラ・シンガー(ヘレナ・ボナム=カーター)/ロバート・ポールセン(ミート・ローフ)/エンジェル・フェイス(ジャレッド・レト)/アーヴィン(ポール・ディロン)/メカニック(ホルト・マッカラニー)/リチャード・チェスラー(ザック・グルニエ)/レイモンド・K・ヘッセル(ジョン・B・キム)/リッキー(アイオン・ベイリー)/スターン刑事(ソム・ゴッサムJr.)/ステフ(エバン・ミランド)/クロエ(レイチェル・シンガー)/トーマス(デイヴィド・アンドリュース)/警察署長(レナード・タルモ)/空港の警備員(ボブ・スティーブンソン)/インターン(リッチモンド・アークウェッド)/演説の男(シドニー・"ビッグ・ドーグ"・コルストン)/女リーダー(クリスティーナ・キャボット)/ウェイター(エドワード・コワルジク)

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映画『ファイト・クラブ』感想 |

ここに描かれたエドワード・ノートンが演じる主人公の、現代社会で生きることの実感の希薄さが印象的だ。
この主人公が、さまざまな病苦や中毒者のサークルに参加し「他者の痛み」を通じて、自らの生きているという実感を我が物としているように思える。
ここで描かれた主人公の衰弱は、生の実感をいかに得るかという点で、先進国を生きる現代人にとっての必然であるかも知れない。
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更にはもっと直接的に殴り合いという暴力によって、自らが生きている事の実感を得ようとしてもがく姿は、痛々しくすらある。
つまりここで語られる主人公の姿とは、生物としての必須要素「命」を喪う危険を犯して、自らが生きているという実感を得ようとする姿だったろう。

その「命」の象徴が、強い生命力に満ち溢れたブラッド・ピット演じるタイラーだと思える。
彼は、パワフルでセックスアピールに満ちたカリスマで、エドワード・ノートン演じる主人公とは、真逆の存在だ。
ここで、整理すればタイラーの役割は人工的に構築された現代社会を、生物としての野生を持って覆そうという試みだ。
対して、主人公は人工世界の犠牲者として苦しむ存在であり、この映画のラストで救われる存在として描かれたように感じた。
何故なら、このラストシーンは現代文明下で持ち得ない、「生の実感」を獲得しうる唯一の方法は現実世界に満ちた痛みなのだと語っていると、個人的には解釈していた。
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しかし、そんな考えに疑問を持ったのはエンドロールを見ている時だった。

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以降 ファイトクラブ・ネタバレを含みますので、ご注意下さい。 |

映画『ファイト・クラブ』解説エンドロールの真実 |
エドワード・ノートンの役名が、ナレーターとなっているのだ・・・・・・
このナレーターが意味するモノは何だろう――

そもそも、ナレーターとは映画の物語を説明する存在であり、つまりは 「映画=虚構内」の一部をなすものだ。
対して、タイラーはそのクレジットにタイラー・ダーデンとしっかり記載されるのに対し、このナレーターとはもう一段虚構的な存在なのである。
実際、この一見二重人格の物語は、登場人物の誰が「虚」で誰が「実」かは、この映画の中では曖昧で不明瞭だ。
念のため、物語の核となる主人公とタイラーの対話を確認しておこう。
<意訳>タイラー:座れ。/主人公:さあ、答えろ。なぜみんな、俺がお前だと考えると思う?/タイラー:お前は知っている。/主人公:いや、俺は知らない。/タイラー:イヤ知ってる。なぜ、みんな俺がお前と一緒にいると混乱すると思う?/主人公:分からない。/タイラー:判ったろ。/主人公:いいや/タイラー:言ってみろ。/主人公:なぜなら。/タイラー:言ってみろ。/主人公:なぜなら俺たちは同一人物だからだ。タイラー:その通り。(回想)俺たちは同じ歌を歌い、同じダンスを踊っているクズだ。/主人公:これは良く分からない。/タイラー:お前は自分の人生を変えたかった。でも自分では無理だった。全てはお前が望み欲したことを、俺がやった。お前が望んだ外見に俺がなり、お前がSEXしたい時俺がSEXした。俺は利口で、能力があり、何より重要なのは、お前ができないことでも、俺はいついかなる時も自由にできた。/主人公:違う、違う。(回想)タイラーはここにはいない。タイラーは出て行った。タイラーは去った。/マーラー:何?/主人公:そんな不可能だ。/タイラー:いいや。/主人公:狂ってる。/タイラー:みんな毎日やっている。彼らは自身の言いたいことを口にし、したいことをする夢を見る。彼らは、突き進むのに必要なお前の「勇気」を持たない。もちろん1人でレスリングしながら、時々自分に戻った。(回想)主人公:また時々こうしような。/タイラー:また別の時には、お前はお前自身で俺を見たとイメージした。(回想)ファイトクラブの入会日には闘わなければならない。/タイラー:少しずつ、少しずつ、お前は近づき、成っていく。タイラー・ダーデンに。(回想)お前の仕事が全てじゃない。いったいいくら銀行に金を貯めたいんだ。
このシーンを見る限り、「主人公」が実在し、タイラーは主人公の「妄想=虚構」であるように見える。
しかし、この主人公は「ナレーター=虚構内の存在」だと、映画が宣言している以上、これをそのまま受け取る訳にはいかない。
再び言うが、そもそもこの映画は、劇内の約束事を裏切り、観客をミスリードする構造になっている。
従って、上の会話をそのまま信じることすら危険ではないか?
上が真実だと見なすべき証拠もなければ、その会話を信じるべき義務もなく、このドラマの更なる裏切りに留意すべきだ。
個人的にはヒロイン・マーラーのみが実像で、残りはその虚像として男二人が在るという可能性も考えたほどだ。
映画としての「虚実の枠組み」が不徹底であるので、どうにでも解釈できる中で、ラストも含め最も筋が通っていると個人的に思える解釈を書かせて頂く。
エドワード・ノートンの役がナレーターという「映画の一部」を構成していることから、この映画で語られた二重人格の物語は――
エドワード・ノートンの虚像としてタイラーがあるのではなく、タイラーという現実存在の虚像として、エドワード・ノートンの演じるナレーターが存在すると考えたい。
つまりこの映画は、タイラーという実存が、自ら「主人公=ナレーター」という存在の虚像であると、妄想する姿を描いたものだ。

彼は、映画内で現実の存在だったのだから。

対するナレーターは、タイラーが夢見たもう1人の自分であり、最終的にタイラーの野生を打ち負かした者だ。
彼ナレーターは、映画という虚像であり、タイラーの虚像だった。
そこから見れば、映画表現が、現実世界を変革しうる強い力を発揮したとするのが、個人的には最もパワフルなこの映画の解釈だと信じている。
しかし、ナレーターと映画存在がタイラーという現実世界を侵食するという、この解釈に違和感を持つのであれば、もう少し跳躍の幅を縮めた解釈も出来る。
例えば、ナレーターが意味するのは「人工的な構築物=哲学・理想・社会規範」などの、人間がその頭で生み出した「理念」としても良い。

対するタイラーは、「自然=生命・野生・本能」の化身であったろう。
これを簡潔にまとめれば、野生としてのタイラーが、理性としてのナレーターを求めたのだと言える。
そう捉えたとき、タイラーの暴力的で野蛮な野生のアンチテーゼとして、このナレーターは虚弱で知性的な空想物として存在している。
そして、ラストにおいてタイラーの野生が自死する事で、ナレーターという理性的存在の成立が描かれるのだ・・・・・

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映画『ファイト・クラブ』解説語られたアナーキズム、ラスト死なない理由考察 |
社会的再構築にあたって、確立した社会的枠組みを徹底的に破壊しなければならないとする、タイラーの行動はアナーキズムを語るものだ。

代わって示されたのは、文明社会を破壊するもうひとつの方法の提示だったように思う。
即ち、旧文明の基礎をなす社会概念の破壊であり、新たな文明概念の創出をなすことだ。
例えば、古代文明がキリスト教世界観で、書き換えられたように、キリスト教世界観が、神は死んだという「唯物論」により大混乱に陥ったように、人工的な概念、理想が、暴力と同様の衝撃を旧弊な文明にたいしアナーキスティックな効果を発揮し得るのだ。
つまりこの映画のラストで語られたのは、タイラーの代表する暴力的なアナーキズムの死だ。
そしてナレーターという「人工世界=概念・理念」の確立とは、旧文明の批判的再構築であり、その象徴として「タイラーの人格崩壊=死」として描かれたに違いない。

映画『ファイト・クラブ』ネタバレあらすじ |
タイラーの破壊活動が実行され町のそこかしこで爆発が起こる。さらなる破壊を阻止しようと、主人公が動き出す。しかしメンバーやマーラに尋ねても、怪訝な顔で望む答えはない。
しかしそんな主人公の元をタイラーが訪ねて、その秘密を語った。
タイラーが語ったのは、主人公が二重人格でタイラーと同一人物だということだった。
タイラーが消えた後、主人公は破壊活動を阻止しようと、爆破目標のビルへと向かう。そのビルにはマーラーも捕えられていた。そこにタイラーが現れ主人公を殴り倒され意識を失う。しかし、ビルの防犯カメラには主人公が一人で暴れている様子が映っているのみだった。
主人公が意識を取り戻すと、椅子に縛られ、タイラーに銃を突きつけられていた。
しかし主人公は、タイラーが自分の妄想ならば、銃をタイラーから奪えるはずだと思念を集中すると、その手には銃が移動していた。
その銃を口に加え、引き金を引く。
崩れ落ちる主人公。
するとタイラーの口から一条の煙が立ち上り、抜け殻のように倒れた。
タイラーの後頭部には大きな穴が開いていた。

映画『ファイト・クラブ』結末 |
<意訳>
マーラー:自分で撃った?
ナレーター:ウン。でも大丈夫だ。マーラー僕を見て。本当に大丈夫なんだ、信じて。まったく快調なんだ。
(ビルが爆発する)
ナレーター:僕の人生の中でとても奇妙な時に、君は立ち会ったね。
この奇妙な時とは、ナレーターという人工的な存在がタイラーを倒し、実体化する過程という意味だろう。
このナレーターとマーラーは、「人工的な虚構=世界観・理想」を梃子に破壊せしめた旧文明の瓦礫の上に、新たな文明を築き上げるべきアダムとイブなのだと、花火のように崩壊するビルと、瞬間に明滅する男根によって、アナーキズムとエロスの内に告げている。
そもそも、映画のオープニング、タイトルバックに描かれた脳細胞の描写は、「意志=理念」が新たに命として発生する瞬間なのだと、このラストを見て納得したのである。
<オープニングシーン>

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『ファイト・クラブ』エンディング・テーマ
この曲も暴力性とリリシズムを湛えて感動的、ピクシーズの歌う「フェア・イズ・オン・マイ・マインド」
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自分のマイベストの一つ!★5で嬉しいです!
ありがとうございます(^^)傑作でしょうね〜以降のただダマセバ良いという以上に、この映画には魂が籠っているように思いますm(__)m
ありがとうございます( ̄▽ ̄;)おじいさまがこの映画観てお亡くなりになったというのは感動的です・・・遺言ならぬ遺映画ですね・・・私も余命数日といわれたら、この映画を見るのは間違いないでしょう・・・・でも、最後に一本だけと言われたら・・・難しい(^^;
突然のメールをお許しください。
貴兄の『ファイト・クラブ』論を、拙論の中で紹介させていただきましたので、ご報告させていただきます。
事後報告ですが、どうぞご了承ください。
。デイヴィッド・フィンチャー監督『ファイト・クラブ』:厨二病的 変態映画
https://note.com/nenkandokusyojin/n/nd6da9c044eac
ご挨拶恐縮です。
拙文を取り上げて頂き有難うございます。
私も年間読書人さんのご高説を読み、大変勉強になりました。
また、何かお役に立てる文章があれば、ご自由にお使いください。
ありがとうございました。