評価:★★★★★ 5.0点
この映画の語り口の静けさにやられました。
クリントイーストウッド監督は、今作では役者の演技をその細部まで、長回しでじっくりと撮っています。
この映画のテーマによくマッチしたした話法だと思いますし、全てを明快に説明しない脚本も、役者たちの表現に依存する部分が大きくなり、演技者は遣り甲斐があったのではないでしょうか。
結果的に出演者がアカデミー賞などで評価されたのも、イーストウッド監督のこの映画に対する演出姿勢によるものだと感じました。
<ミスティック・リバーあらすじ>
ジミー(ショーン・ペン)、デイヴ(ティム・ロビンス)、ショーン(ケヴィン・ベーコン)の幼なじみ3人は、ボストンのイーストバッキンガム地区で育った。彼ら3人は、ボストンのイーストバッキンガム地区で少年時代を共に過ごした幼なじみ。しかし彼らが11歳の時、警察官の振りをした二人組みにデイヴが誘拐され、性的暴力を受けた。
事件以来疎遠になった三人も今は30代半ばになっていた。犯罪社会に身を置きながら今はジミーは前科者の過去を持ち、ディヴは未だに事件のトラウマに傷つきながらも、静かに家庭人として暮らし、ショーンは殺人課刑事となっていた。ある日ジミーの娘ケイティ(エミー・ロッサム)が殺され、ショーンと相棒のホワイティー(ローレンス・フィッシュバーン)が事件の捜査に当たる。
犯人を独自で捜すジミーに、ディヴの妻セレステ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)は事件の夜にディヴが血まみれで帰宅していたため、ディヴが犯人だと思うと語った。ジミーはディヴを呼び出し詰問する。デイヴは「少児性愛嗜好者を見かけ、我慢できず殴り殺し血を浴びた」という説明をする。しかしジミーは信じず、脅迫の末「ケイティを殺した」と言わせ、ナイフと銃でディブを殺し川に捨てた。しかし、刑事ショーンが知った事件の真相とは・・・
(アメリカ/2003年/138分/監督クリント・イーストウッド/脚本ブライアン・ヘルゲランド/原作デニス・ルヘイン)
第76回アカデミー賞,ショーン・ペンが主演男優賞、ティム・ロビンスが助演男優賞
実際この映画の地味なスタイルは、ハリウッド作品とは思えないほどです。監督のネームバリューによって集客が見込めるからこその自由だとすれば、イーストウッド監督は、自由に映画表現が可能な権利を勝ち取ったのでしょう。
そして、ハリウッド商業映画とはちょっと違うニュアンスの、良質作品を発表する姿勢は映画ファンにとっては有難いことだと思います。
「ミスティック・リバー」とはアメリカ・ボストンにある実在の川の名前。
もともとはワンパノアグ・インディアンの呼び名"muhs-uhtuq"から由来し
"大きな川"の意味。
この映画も「大きな川」のごとくゆっくりとした流れで、3人の幼なじみの男たちの人生を描いて切ない物語です。
11歳の3人の少年の上に、変質者による事件が降りかかります。3人のうちの一人、デイブが変質者に連れ去られ監禁レイプされてしまうのです。
そして少年の日の忌まわしい記憶は、川の波のようには確実に伝播し影響を与えます・・・・・
この変質者の事件もまた3人に確実に力を及ぼしました。
連れ去られたディヴは自ら「11歳で自分は死んだ」と言い、この事件ゆえにさらに大きな出来事に連鎖することになります。
また警察官になるショーンは、この事件で守れなかった何者かを償うため、法の番人になったように思います。
そしてもう一人のジミーは強盗の前科を持つ犯罪者となります・・・・・・
これも、誰も守ってくれない、何が起きても自力で闘うという選択からではないでしょうか。
結局一度発生した波は静かな水面を伝わるように、この3人の周りの人間にも波及していきます・・・・・
そんな運命の残酷を描いた、哀しくも厳しい物語です・・・・・
娘を殺されたショーン・ペン迫真の演技「俺の娘がそこにいるのか!?」
========================================================
========================================================
========================================================
以降「ネタバレ」を含みますので、ご注意下さい。
========================================================
========================================================
========================================================
結局、少年の日の傷は三者三様その身の上に影響を及ぼしていたと思うのですが、それでも一つの殺人事件が起こらなければ、三人の運命はこの映画ほど悲劇的ではなかったとも思うのです・・・・
事件で殺されたのはジミーの娘でした。
その犯人はジミーの娘・ケイティーのボーイフレンドの弟でした。
ケイティーと兄が駆け落ちを計画しているのを知り、弟は兄に捨てられると思ったのです。
しかし、その事実を知る由も無い三人には、その殺人事件が川に投げ込まれた石のように、波紋を投げかけます。
少年の日に形成された人格は、事件の衝撃によりさらに加速度を増し、3人に跳ね返ってきます。
ジミーが少年の日学んだのは、自分だけしか信じられない、自力で全て解決する道です。結局、ジミーは自らの力を信じるという信念ゆえに、過ちを犯します。
ジミーは娘を殺したのは、自分に怨恨がある者だと考え、それはディヴだと思いました。
それは、少年の日ジミーかディブかを、犯人が天秤にかけディブを選んだという過去があったからです・・・・・
ディヴを疑い、問い詰めます、ほとんど脅迫するように、そして「殺した」と言わせて、ジミーはディブを殺します。
しかしその過ちは罪ではないと言う妻を持ち、自ら信ずることを成すという信条は家族に引き継がれるでしょう。
一方ディヴは、事件以来、いかに野球で活躍しようと、ずっとトラウマに悩まされ、結婚した今でも挙動不審で、どこか空ろに生きています。
それゆえ、デイヴが「少児性愛嗜好者を見かけ、我慢できず殴り殺し血を浴びた」という真実を説明しても、ジミーは信じません・・・・・
これが、ジミーでなければ信じた可能性もあったかもしれません。
しかし、同じ事件を経験し自らを恨んでいると思っているジミーには嫌味にしか聞こえなかったはずです・・・・・
また彼の妻すらディブが犯人だと疑っています・・・・
結局デイブに起こった悲劇は、彼がすでに少年の日に実質的に死んでいて、自らに起きた不運を消化できず、自分が何者なのか不安を持って生きてきたせいではなかったでしょうか。
いずれにしても残った家族は、ディブに対する裏切りの責任を、負い続けなければなりません。
結局、一つの波が次の波を作り・・・・波は水面を伝わって全ての水に影響し・・・・
全ては繋がり連鎖していきます。
こうして一つの「事件」が「大きな事件」に波及していくとき、この世のやるせなさと悲しみを感ぜざるを得ません。
「ミスティック・リバー」の名は、北米インディアン・アルゴンキン族の言葉 "Missi-Tuk"とする説もあり、この言葉は「波によって水を運ぶ偉大な川」と訳される。また波潮の発生原因が明瞭でないことから「自然界の不思議」の意も含む。
人の世も、なぜ理不尽な運命が発生するのか判らないし、その大きな流れを堰き止めることは、ホントに難しいことだとこの映画は語っています・・・・
悪から逃げようとしたデイブ、
自ら悪の力を振るったジミーは、
ついには流れに押し流されて戻れなくなってしまいました。
人生に発生した経験は連関し、成長の過程で作られた人格形成から、自ら修正していくのは本当に困難だと思います。
そして、その人格ゆえに生じた行動は、家族や周囲の人間に影響し波及していきます。
そんな、不幸の増幅を見るとき、世の中の悲しみやるせなさが、身に沁みます。
しかし、この映画ではそんな一見不可避の人生を変え得る希望も描かれているのではないでしょうか・・・
それは少年の日の事件に対し、苦しくとも辛くとも正面から向き合い、あの不幸の意味、あの不幸を根絶する道を、求め続ける事だったように思います。
それこそが刑事ショーンの対応だったように思います。
ショーンの妻は、殺人事件の前から逃げていました。
それはショーンが、自ら警官という仕事に没頭せざるを得ない、少年の日の事件に対する贖罪の念を持っていたためだと
個人的には思うのです。
結局自分の過去に正しく向き合う。
それ以外に、自らの人生を取り戻す道はない・・・・・・・・
彼の元に戻ってきた、妻と娘をみて、そう思いました。
=========================================================================
ミスティック・リバーのラスト
=========================================================================
ミスティック・リバーのラスト
=========================================================================
この映画のラストは見事としか言いようがないと思います。
ジミーとその妻アナベスは、デイヴを殺していながら、弱いから犠牲になったのだと、自分達の罪を認めません。
それは少年の日、自らの罪悪感をデイヴが犠牲になったのは弱いからだと言い聞かせたことに通じるものでしょう。
またデイヴの妻セレステは夫を信じられなかった罪悪感から、子供も自分を裏切るのではないかと不安のあまり駆け出したように見えます。
それは少年の日以来、デイブが自らを信じられなかったがゆえの帰結だったと思わずにはいられません。
そして、刑事ショーンは「戻ってきた妻と娘=取り戻した人生」を手にして、ジミーを銃で撃つジェスチャーをします。
それは、ショーンが11才の事件を克服したにもかかわらず、ジミーは一生抜け出せないという事実を、皮肉に象徴したものではなかったでしょうか・・・・
一度立ったさざ波は消えることなく、更に大きく広がって・・・・・それは大河に波を起こしさえするでしょう。
スポンサーリンク
【関連する記事】
- 映画『ピアノレッスン』美しく哀しい女性映画!再現ストーリー/詳しいあらすじ解説・..
- 映画『我等の生涯の最良の年』考察!本作の隠された主張とは?/復員兵ワイラー監督と..
- 映画『我等の生涯の最良の年』戦勝国米国のリアリズム!感想・解説/ワイラー監督の戦..
- 映画『シェーン』 1953年西部劇の古典は実話だった!/感想・解説・考察・スティ..
- オスカー受賞『我等の生涯の最良の年』1946年のアメリカ帰還兵のリアル!再現スト..
- 古典映画『チップス先生さようなら』(1939年)戦争に歪めれた教師物語とは?/感..
- 古典映画『チップス先生さようなら』1939年のハリーポッター!?再現ストーリー解..
ありがとうございます(^^)イーストドウッド監督渾身の一本ですね。
>こういう映画に巡り会えた幸せをしみじみ感じます😃
ほんとにそんな一本ですm(__)m
ありがとうございます(^^)いい映画ですよね\(^o^)/
イーストウッド監督もトランプさん応援する暇が有れば、いい映画を撮っていただきたいものです^_^;