評価:★★★★ 4.0点
このアニメは中学生のリア充の恋愛がうらやまし過ぎるとか・・・・・・
この最後のあんまりな結末に、鬱になるとか・・・・・・・・・
いろいろご意見もあるかと思いますが、やはりそれでも『君の名は』につながる美しさがここにはあると思えます。
『秒速5センチメートル』あらすじ
短編3本の連作として製作された、主人公遠野貴樹の物語。
<桜花抄>東京の小学校に転校通してきた遠野貴樹(声:水橋研二)と篠原明里(声:近藤好美)は、同じ環境の似たもの同士ということで、互いに好意を持ち同じ中学校に進学しようというとき、明里は宇都宮に引っ越す。二人はその後文通を重ねるが、中学1年時のとき貴樹も種子島に転校することが決まり、転校の前に明里に会うために宇都宮に向かう。しかし折悪しく豪雪に見舞われ大幅に約束の時間に遅れてしまう・・・・
<コスモナウト>種子島の夏で高校三年の澄田花苗(声:花村怜美)は、中学二年の時に東京から引っ越してきた遠野貴樹(声:水橋研二)に片思いをしている。同じ帰り道を一緒に帰りながらも、自らの思いを打ち明けることができない。打ち込むサーフィンで波に乗れたら告白しようと決め、ついに成功した日に貴樹と一緒に下校する。しかし花苗は共に歩きながら、思いがあふれ泣き出す。その二人の上をH2Aロケットがどこまでも昇って行くのだった・・・・・・・
<秒速5センチメートル>社会人になった遠野貴樹は、がむしゃらに仕事をし、疲れ果て、仕事を退職する。彼女にもフラれ、抜け殻のようになって思い出すのは、中学時代の明里との思い出だった。また、明里も新たな生活に踏み出す前に、貴樹との記憶を蘇らせていた・・・・・・
『秒速5センチメートル』予告
(日本/2007年/60分/監督・演出・脚本・原作・絵コンテ・キャラクター原案・新海誠)
『秒速5センチメートル』感想・解説 |
このアニメ映画で表しているのは、届かない思い、遥かな距離を隔てて、なお追い求めとめようとする切ない思いにあると感じました。
そんな儚く哀しい心を見事に表現した、新海誠監督の画面の細部にまでリリシズムを込めた表現力が素晴らしいと感動しました。
この映画の持つリリシズムとは、永遠に手に入らないからこそ成立する、崇拝の姿ではないかと思うのです。
だとすれば、この映画のラストは「崇拝すべき存在」を天上に止め置き、崇め続けられる幸福を手にしたハッピーエンドではないでしょうか・・・・・
意向の文章には 『秒速5センチメートル』ネタバレがありますご注意下さい。 |
この映画の主人公は、中学一年の3学期に人生のピークを迎えたのだと思う。
好きな女の子と相思相愛になり、ファーストキスを交わす。
そして一晩、二人きりでそれぞれの思いを語り朝を迎える。
そんな完璧な時を過ごして、その思い出は残像としてなお光り続けただろう。
この中学生のカップルは、お互い遠く離れた物理的距離を越えられず、特に主人公の遠野貴樹は自らの『永遠の時』を越えられず、その思いは転じて遥かな宇宙を夢想したり、仕事を通じて自己実現を成そうとして果たせない。
それは、高校時代に自らを思ってくれる相手が傍に居てすら気が付かないほど、遠くにしか焦点があっていないという描写に明らかだ。
結局、遠野貴樹にしても、その貴樹に高校時代に恋した澄田花苗にしても、隔たって離れているからこそ「想い」が募るのだろう。
なぜなら、彼等が求めた対象とは「現実の存在」ではなく「胸の内の理想」に他ならないのだから。
決して手に入らない「理想」を思う時、人が成す行為を「祈り」と呼ぶのではなかったか。
つまりここに在るのは「人が神を思う=信仰」の姿である。
祈りが完全に適えば「信仰=祈り」が消え去るように、人は現実に安住し得ないがゆえに「誰かを恋し」「宇宙を目指し」「理想を求める」のではないのか。
そして、間違いなく、自分の「望むモノ」を不可能なほどの高みに設定したとき、その無理な望みのために自らを修道士のごとく、純粋に高潔に保とうと努めるはずであり、そこにはある種の気高さを伴った美が生じるはずである。
主人公の恋する相手を「マドンナ化」する姿とは、一見現実の中で満足を見出せずに、自らの幻想の中で「欲望」を生み出す、思春期の少年達とおなじ心理的作用「中二病」として見える。
しかし、本質的に違うのは中学生の「夢想=理想」は、成長し現実世界の経験を重ねることにより、夢は日々の摩擦を経て「矮小化された日常」へと向かい、輝きと気高さを喪うということだ。
対してこの映画の主人公は、高校時代や社会人時代に3年付き合った彼女が居たという描写を見れば、他者からみれば「リア充」として現実を生きていたはずだが、それでも一度手にした「篠原明里=理想」を捨て切れなかった。
実際は彼にも分かっていたはずだ、それは現実の相手ではなく、13歳の時に生まれた、相互の隔たった想いが完璧なタイミングで融合した一期一会の「奇跡の瞬間」なのだと。
その「美しき奇跡」を残像として心に宿し、矮小な現実の苦しさを前に、その「美」に磨きをかけさえしたのだろうと想像する。
そんな「美しき奇跡」を「初恋」と呼ぶこともできる。
そして、しばしば言われるように「初恋」は実らない方が良いというのは、その恋が多分に自己愛の発露であり、自らの願望を相手に投影した結果であるからである。
つまりは初恋という現象は、現実の恋人を己の理想でコーティングし美化するする行為に他ならない。
その試みは、最終的に破綻せざるを得ないのは、現実の恋を重ねるとは、「他者=恋人の理想」を前に自らの「自己愛的理想」を打ち崩される工程であるからだ。
その、無惨で無慈悲な現実に、自らの理想を侵されずにすむ道は、ただ一つしかない。
触れずに敬して遠ざかり、崇めることだ。
これこそ、この主人公の成したことではなかったか・・・・・・
『秒速5センチメートル』ラストシーン |
そして、この映画のラストで示されたのは、この主人公はかつて恋人であった存在を現実で手に入れようと思っていないと言う事実だ。
過去の甘やかで理想の姿をした、中学生時代の彼女ほど完璧な存在が無いことを知っている彼は、そうできるのに、現実の彼女に駆け寄り抱きしめることをしない。
明らかに現実の彼女よりも、過去の彼女に対する「想い」の方に価値があると、知っているからだ。
それゆえこの主人公は、これから先も自らが作り上げた「美しき奇跡」を前に、永遠の彷徨を続けなければならないだろう。
それは不幸であったとしても、現実の小さな幸福よりも、美しき甘美な決して手に入らない「完璧な理想」に殉ずるというロマンチズムを生きるという決意でもある。
そしてその姿とは、間違いなく、現実の中から永遠の美を抽出しようとする、芸術家の魂に通じるものであり、新海誠監督のリリシズムの本質を表すものだったろう。
だが、この映画で語られた「隔たれた理想」「美しき奇跡」を、今この時代に語るのは冷笑を持って切り捨てられるのが関の山だが、それをアニメーションで描くことで、一見陳腐なテーマを昇華し、再生することを可能としたと思う。
つまり「中二病」の如き、甘く幼い「夢想」ですら、この監督のアニメーションのデティールに表現された美の鮮烈な説得力をもってすれば、十分語れることを意味する。
新海誠という作家はアニメにより『ロマン派』を再興・復権することだろう。
この映画のエンディングテーマにして、全てといってもいい・・・・・
『秒速5センチメートル』主題曲
山崎まさよし / One more time,One more chance
ぜひこの作品本編で、主人公達のドラマとこの歌が重なる感動的なエンディングをご覧ください。
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ラベル:新海誠
この作品も名作と聞いていますが、観ていませんでした。
ちょっと観た観たいと思います。
ありがとうございます!アニメも見ます。(^^)
実は「君の名は」の予習のようなものでして、これから「言の葉の国」を見ようかと・・・・絵がキレイなので、快感が有りますね〜
ありがとうございます!この映画のラストに流れる山崎まさよしさんの歌と、アニメとの重なり合いは、鳥肌モノです・・・
何をもってリア充なのか?
難しいですよね〜この主人公は結局中学校の恋を忘れられなかったという点で、誰と付き合っても「リア充」は無いのだろうと感じます・・・・・