評価:★★★ 3.0点
あなたは、3D映画で思わず「身をかわした」覚えがないだろうか?
また映画の始祖、リュミエール兄弟の「ラ・シオタ駅への列車の到着」という作品は、劇場に来た観客をパニックに陥れたという。
映画という現実を整理できていない時代に、遠くから列車が近づいてくるのだから、恐怖を覚えて当然ではないか。
リュミエール兄弟の「ラ・シオタ駅への列車の到着」
もしこれが現実だったら間違いなく死ぬ。
たかだか娯楽の為に、命を賭けるわけにはいくまい。
この映画の持つ衝撃とは、「ラ・シオタ駅への列車の到着」と同様の効果を観客に与えたと感じる。
この映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』はPOV及びモキュメンタリーの元祖映画であり、既に映画史に残る一本ではある。
POV(Point of View=主観映像)とモキュメンタリー
POVと昨今呼ばれる、カメラの視線と登場人物の視線を一致させるようなモンタージュは、この映画に限らず、以前より映像シークエンスの中で多用されている。
この映画で特徴的なのは、そのPOVの比率が高い事と、手持ち撮影による揺れとノイズなど、家庭ビデオのビジュアルを積極的に導入した点にこそあっただろう。
そういう点では、POVの革新というよりはモキュメンタリー(ドキュメンタリー風表現)としての効果こそ、この映画の本質であるように感じる。
そしてこの映画がPOVやモキュメンタリーというユニークさを生み出せたのは、それまでプロならやらなかった、ビデオで映画を撮るという手法が新しかったのであり、ビデオ映像は嘘が無いという現代人の刷り込みを上手く突いたからではなかったか。
結局、この映画が生み出した効果とは、「ラ・シオタ駅への列車の到着」と同じく「虚」と「実」の境界を曖昧にする事で、観客の心に事実かもしれないというパニック状態を作り出した事に有ったろう。
<ブレア・ウィッチ・プロジェクトあらすじ>
モンゴメリー大学映画学科の三人の学生、女性監督のヘザー(ヘザー・ドナヒュー)、撮影担当のジョシュ(ジョシュア・レナード)、録音担当のマイク(マイケル・C・ウィリアムズ)は、伝説の魔女「ブレア・ウィッチ」のドキュメンタリー映画撮影のため、メリーランド州バーキッツビルのブラック・ヒルズへ赴く。
撮影する三人は森の中で消息を絶ち、やがて捜索は打ち切られる。しかし事件から1年後、撮影フィルムとビデオが発見される。そのフィルムには7日間の間に遭遇した怪奇現象と、クルーが行方不明になっていく恐怖の映像が記録されていた・・・・・
(アメリカ/1998年/81分/監督脚本・ダニエル・マイリック,エドゥアルド・サンチェス)<ブレア・ウィッチ・プロジェクト出演者>
ヘザー・ドナヒュー(ヘザー・ドナヒュー)/ジョシュ(ジョシュア・レナード)/マイク(マイケル・C・ウィリアムズ)
つまり、『シオタ駅〜』が当時の人間にとって現実と見分けが付かなかったと同様、この映画は近年蓄積されたリアルさの映像スタイルとして刷り込まれた、画像・演出に満ちている。
そのリアリティーゆえに、人はこの映画を現実的な事件だと誤認し恐怖を覚える仕組みになっている。
具体的にはドキュメンタリーの手法や、再現フィルム、映像資料、個人撮影映像を積み重ねることによって、リアリティを構築しようとする努力が効果を上げている。
このドキュメンタリータッチのフィクションが見る者に「現実=リアリティー」の迫真力を持ちえるのは、人間の知覚・認識という物が如何に無意識の内に支配されているかの証左で在るだろう。
つまりこの映画が恐怖として効果を上げたのは、人間のリアリティーを感じるパターン認識を巧妙に用いているからだと思うのだ。
パターン認識というのは、点もしくは丸が2つ並んで横棒が一本引かれていれば、顔として認識してしまうというような、ある刺激に対する自動化された刷り込みのようなものを、指している。
例えば上記の例で言えば、ヒトにとって顔の表情を認識することが、生死を分かつほどの大事な形であるが故に、微かな表象であっても見逃すことはできないのである。
その作用は例えば、心霊写真の中に誰かの顔を見出すといった時、往々にして実際には顔ではないものをこの図形パターンと照合し無意識に見出してしまう。
そんな事実を踏まえ、この映画のパターン認識を考えた時、かつて無かった新しい表現をホラー映画に付け加えたと思う。
それは単純に、手持ちビデオの荒く不鮮明な映像を全面的に使ったという一点において、ユニークであった。
この映画を見て気が付いた効果の一つが、ビデオ映像が「リアル=現実」を意味するパターン認識として成立しており、無意識のうちに観客に現実であるとの情報を与えるという事実である。
つまりは、「ビデオ映像」は誰しも共通の情報として、個人が撮影するもので「嘘=編集」が無いという認識、またその機動性から「ドキュメンタリー」の撮影機材に使用されてきたという過去の経緯も含め、「真実=リアル」という情報経験と結びついている映像なのであろう。
これは、写真が真実を映すという一種の思い込みと同様、現代を生きる者にとっては抜き難い認識パターンとして刷り込まれていると考えざるを得ない。
つまりは「ビデオ」というメディア映像だと了解された時点で、かつての写真のように、「真実の映像」としての証明を持つことになる。
さらに「ビデオ映像」が持つ利点とは、その荒れた、写りの悪い、不鮮明な、不明確な画像情報にある。
この「不明確な画像情報」とは、過去の映像技術が鮮明で高解像の画像を撮影するために注力してきた為に喪われた、過去の「パターン認識」を復活せしめるものだったろう。
すなわち「あいまいさ」である。
この「あいまいさ」こそ、全てを持つものだ。
いっそ「恐怖」の別名を「あいまい」と呼んだとしても、あながち間違いとは言えまい。
なぜなら「恐怖」とは不明確な事実、漠然とした恐れ、それとは知れない禁忌は、すべて不明確で不可視な何者かであるはずだからである。
それゆえ暗闇を見るとき、ヒトはその中に「不安・恐れ」を見てしまう。
つまり「あいまい」な視覚刺激に対するヒトの「パターン認識」は、即ち「恐怖」という感情にほかならない。
そのかつての「恐怖」を現出させるために、荒れたビデオ映像は極めて効果的だったと思われる。
結局「ビデオ映像」という新たなギミックがもつ「ユニーク=新奇性」が、恐怖を語る際の「パターン認識」と上手く折り合ったが故に、新たな恐怖を生み出す事が可能になったのでる。
しかし、この映画で示された「ユニーク=新奇性」という「魔女」は、過去の「写真」がそうであったように、あっという間に魔力を失う運命にある。
このビデオ画像のもたらす「パターン認識」が、「真実」を意味するものではないという整理が成されてしまえば、魔法の効力は雲散霧消する以外ないからである。
つまりは、映像的なリアリティ表現の追求以外、この映画に語るべきものがないということになる。
アマチュア的な映像のチープさがリアリティーにつながるという発見の、敷衍・延長としてあるように思う。
そして、これら近来の「ドキュメンタリー」や「映像資料」を模した映像リアリティは、演出やストーリーテーリングを語ることが出来ない。
なぜなら「ドキュメンタリー」や「映像資料」に演出や物語が持ち込まれたとき、それは「ヤラセ」と呼ばれる「嘘」となってしまうからだ。
従って、これらの表現は従来の映画的な「虚構性の話法=物語」を否定する形で、リアリティを確立したといえるだろう。
つまりこの映画の映像表現の「ユニークさ=新奇性」は、反映画的で在るが故に「映画的リアリティ」を得たのである。
そう考えたとき、この映像表現のリアリティーがどこまで効果を持ちえるかという点に、疑問を持たざるを得ない。
例えば、「仁義なき戦い」の格闘シーンの手持ち撮影による「ドキュメンタリー表現」にしても、ストーリーの必然による爆発としてあったからこそ、永遠のリアリティーを獲得しえたのではなかったか。
しかし、物語の本質を持たない「映像の新奇性」は、「ラ・シオタ駅への列車の到着」を見て現代では誰も逃げ出さないことで明らかなように、目前の危険が自らに害を及ぼさないと納得してしまえば、その刺激は効果を失う運命であるだろう。
この映画によってホラーの新局面が開かれたのは、映画史的な意義のある事だと思うのだが、以上のように「虚構性の放棄」によるドラマ性の弱さと、その「映像の新奇性」が永遠の効力を発揮し得るのか疑問だという点で、反映画的な作品だと個人的には感じられるため、評価は高くしなかった。
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続編が12月1日に公開になりますよね。これは初日に見てネタバレで記事書いたらかなりヒットするだろうと予想しています。何とか初日に観に行きたいですね。
追伸
叔父が亡くなり、しばらく田舎に行って来ますので留守にします。
よろしくお願いします<(_ _)>
ありがとうございます(^^)
上手く撮ってましたよね。リアルなカンジがこの映画の持ち味ですね!
ありがとうございます(^^)
このシリーズは、すでにブランド化していますよね〜
ところで、叔父さん御愁傷様ですm(__)m
本作の功績(罪?)を考えると、停滞していた当時のホラー映画界に活気を戻してくれたし、現在はホラーだけでなく、どのジャンルにも浸透してきた「POV」系映画のお母さん(魔女だけに)的存在映画として評価できますよね。
ありがとうございます(^^)
「邪願霊」は残念ながら知りませんでした(^^;
個人的に最初思ったのは、トイレの落書きのような、ラフさと粗野さが「ドキュメンタリータッチ」の肝であり、安い資金で上手くやったなという感想でした。
しかし、早晩このドキュメントテーストに慣れてしまえば、廃れると思っていたのですが、その予想ははずれたようです。
この廉価版ホラーは、かつての「日活ロマンポルノ」のように若い作家の登竜門として機能しているのではないでしょうか?