評価:★★★★★ 5.0点
この映画「ク・セ・が・ス・ゴ・イ〜」と呻る一本なのである。
ジム・ジャームッシュ監督のインディペンデンス映画。
ハリウッド映画の整理された映画を見なれた眼で見ると、新鮮な表現スタイルに思える。
<ダウン・バイ・ローあらすじ>
ルイジアナ州ニューオリンズにすむチンピラでポンびきのジャック(ジョン・ルーリー)は、彼女のボビー(ビリー・ニール)とケンカ中。そんな時、商売敵のギグ(ロケッツ・レッドグレア)の画策で刑務所に投獄される。また、ディスク・ジョッキーのザック(トム・ウェイツ)は1000ドル支払うから車を運送しろという話にのって、死体入りの車とも知らず運転し逮捕される。その二人が刑務所の同房に入れられ顔を合わせる。そこにロベルト(ロベルト・べニーニ)というイタリア人が殺人の罪で入牢する。三人の間に徐々にコミュニケーションが生まれ、ついには三人で脱獄する。三人は喧嘩しながらも夜昼を通して逃避行を続け、ルイジの店と書かれた食堂の前に出た。そこにはニコレッタ(ニコレッタ・ブラスキ)という若い女性がいた・・・・・・・・・
(アメリカ・西ドイツ/1986年/106分/監督・脚本ジム・ジャームッシュ/音楽ジョン・ルーリー)
そもそも、インディペンデンス映画という呼称は、ハリウッドの映画システムに乗らないものを指すのだから、世界標準から考えればそちらの方が圧倒的に多いのだ。
そんなインディペンデンス映画というのは、ハリウッド・メジャー作品に較べれば圧倒的に資金が少ないせいもあって、監督があらゆる部分に関わらざるを得ない。

そのため、その監督の個性が小説でいう文体のように映像スタイル=様式として映画全体に定着する。
そんな作家性が強く発揮されるため、その映像リズム、その様式が、見る者の嗜好に合うか否かで評価が割れる。
個人的には、この映画の「様式」は音楽的な構造を持っているように感じる。
例えば最初のシーンは墓場に固定された絵から、ゆっくり走り出すカメラの映像で始まる。
このイントロは、停滞からミディアムテンポの流れを表し、それは、そのまま映画全体のテンポを象徴するものだ。
そのリズムの上に、出演者たちのキャラクターに依存した演奏=演技が繰り広げられる。
クセの強い登場人物の、捻じ曲がったフェイクが入ったその節回しは、コッテリ、マッタリのデルタブルースを彷彿とさせる。
このシブイ、ブルース・ミュージックにハマル人にとっては、生涯を共に生きる大事な映画になるだろう。
【クセの強い出演者達】
ジョン・ルーリー
(John Lurie、1952年12月14日生まれ、アメリカのジャズサックス奏者、俳優、画家。ミネアポリス出身。この映画の音楽も担当。下の動画は "john luire a lounge lizard alone")
トム・ウェイツ
(Tom Waits, 本名:Thomas Alan Waits, 1949年12月7日生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ポモナ出身のシンガーソングライター、俳優。2016年までに17枚のスタジオ・アルバムをリリースしている。2011年に、ロックの殿堂入り:下の動画はロッド・スチュワートのカバーでも有名な「ダウン・タウン・トレイン」)
ロベルト・べニーニ
(Roberto Benigni, 本名: Roberto Remigio Benigni, 1952年10月27日生まれ、イタリアの俳優、映画監督、コメディアン。代表作『ライフ・イズ・ビューティフル』,『人生は、奇跡の詩』:下の動画はジャームッシュ監督『ナイト・オン・プラネット』)
こんな、クセの強い男達の、だらしなくも、手前勝手な、自己主張のぶつかり合いが、映画に不思議な間と諧謔を生む。
見ているうちにこんなバカな、一生うだつが上がらないであろう、このダメ親父達が、なぜか無性に愛おしくなるのが不思議なのだ・・・・・
たぶん、ここには人生の勝者になることなどハナから考えない、底辺に生きる男達のどうしようもない姿を通して、どんな人生であっても愛すべき価値があるのだという、人の営みに対する永遠の許しというものを見出すからではないだろうか・・・

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以降ネタバレがありますご注意下さい
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蛇足とはおもうものの、映画にテーマを求める「文脈派」「理論派」の方々のために、一つの解釈例をお粗末ながら開示させて頂こう。
その三人のうち無実の罪を着せられたジョン・ルーリーとトム・ウェイツの渋い立たずまいは魅力的だが、この二人は基本的にラストシーンを除き、停滞し続ける。
イタリア人、ベニーニの登場によってこの物語は初めて推進力を持つのだ。
この映画を支えているのは、このイタリア人であるのは間違いないだろう。
これは、アメリカ合衆国自体が推進力を失い、外部からの圧力によってしか動かしえない事の象徴のようにも思えるのである。
この映画中イタリア人が常にアメリカ人2人に働きかける事で、事態が動くのである。
そう思えば、刑務所をアメリカに置き換えてみたとき、何の罪も犯さずににいる(=停滞)アメリカ人2人に対して、このイタリア人が殺人を犯して刑務所に入ってきた理由がわかろうというものである。
すでにアメリカは自らを修正する力を持ち得ず、外部からの力の行使が必要だという証明である。
それはまた、劇中のやり取りで、イタリア人が口にする「ロバート・フロスト」の下りでも明らかだ。
「フロスト」とベニーニが口にすると、トム・ウェイツが冷笑するのだ。「ローバート・フロスト」とはアメリカの国民的詩人で、その有名な詩の一節には、こう記されている。
ローバート・フロスト
The road not taken(選ばれざる道)
夕焼けに染まった森の中で、道が二手に分かれていた
残念ながら、両方の道を選ぶことはできない
私はどちらを選ぶか長く考え、片方の道に目をやった
その道は、多くの人が通り、整備されていた道だった
それから、もう一方の道に目をやった
そっちは誰も通らない道で、草が生い茂っている
私にはそっちの道のほうが、とても魅力的に見え、その道を歩き始めた
わたしは自分の歩む道は、自分が作らなければならないと思ったから
あの日、私は自分自身の道を選ばなければならなかった
あっちの道はまたの機会にしよう、と思ったが、二度とこの場所に戻ってこないことを、私は知っていた
私はいま、昔のことを思い出し、ため息をついた
ずっと昔、森の中で道が二手に分かれていた
そして私は、人が通らない道を選んだ
その道のりは、想像を超えるほど大変なものだった
しかしそのことが、どれほど私の人生を刺激的で、おもしろいものにしてくれたことか
(wikipediaより引用)
このアメリカのパイオニア精神を謳い上げた詩人に対して、アメリカ人はすでに冷笑を持ってしか答える事が出来ない・・・・・・またこの詞は、この映画のラストシーンとして、そのまま登場する。

すでにイタリア人が人生の伴侶を得てそこに留まるという選択をしたのに対し、だらしないアメリカ人二人はフラフラと浮遊するように別れ道に至る・・・・
アメリカ人は右と左に分かれて道を進むが、それは既にアメリカという国家が自信を喪失し分裂する姿を表しているようで、意味深長に感じられるのだ・・・・・
スミマセン・・・以上は蛇足の解釈遊びで、本編の映画の本質とは一切関係の無いフィクションです。
くだらない話よりバーボンに合うブルースを――
トム・ウェイツ「ワルツ・フォー・マチルダ」
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ありがとうございます(^^)
クセが強いです〜クサヤぐらい・・・でも、お酒が似合う映画です(^^)
評価5.0は名作の証!機会があれば見てみますヽ(´▽`)/
どうもありがとうございます。
好き嫌いがハッキリする映画かもしれませんが、よろしければ(^^)