評価:★★★☆ 3.5点
つまるところ、「美」とは上流階級に属しているという証だった。
またそれは、転じて、美しければ上流階級に所属する道も開ける事を意味したのである。
この映画はそんな美を巡り、題名のヘルタースケルターが意味する「慌てふためいて」「混乱して」「螺旋状(らせんじょう)の滑り台」を滑り落ちるような女達を描いている。
その主人公を、沢尻エリカが裸体を持って、過激な濡れ場も厭わず、赤裸々に演じて迫力がある。
<ヘルタースケルターあらすじ>
人気ファッションモデル・りりこ(沢尻エリカ)は、今をときめくカリスマスターだった。しかし全身に美容整形手術を施している。りりこは有名になればなるほど、正体が露見するのでは無いかというと恐怖と、美容整形の副作用で、精神と肉体を蝕まれていく。そんな彼女を、芸能事務所の社長多田寛子(桃井かおり)は、アメとムチを使い仕事を強要し、マネージャーの羽田美知子(寺島しのぶ)も監視している。
そんなりりこは結婚を狙っていた御曹司南部貴男(窪塚洋介)に裏切られ、美容整形クリニックの犯罪を追う検事・麻田誠(大森南朋)周囲を探られる。さらに、生来の美を持つ後輩・吉川こずえ(水原希子)が人気を得るようになると、りりこはますます追い詰められて行く。そしてついに、りりこの全身整形の事実が世間に明らかになる日がやって来た・・・・
(日本/2012年/127分/監督・蜷川実花/脚本・金子ありさ/原作・岡崎京子「ヘルタースケルター」/R15+指定)
<ヘルタースケルター解説>
過去をたずねてみれば、自ら人生を切り開けない女性達にとって許された戦略とは、衣装・化粧など少しでも甲斐甲斐しく努力を重ね、美しく装う事であった。
美しければ階級を超えた配偶者を、女たちは我が物とすることができたからである。
しかし、社会的な富が蓄えられ女性が自立することも可能になるにつれ、「美」というものはそのまま本来的な意味=「階級を超えた配偶者の獲得」が希薄となる。

同時にそれは女性の「美」が絶対的な価値を喪失し、女性たちの相対的な価値の中で不安定に成る事を意味する。
すなわち、この映画は語る「見せたいものを見せてあげる」と。
それは、現代が望む「美のシンボル」は、相対的で気紛れな女性集団の嗜好に沿う形でしか不可能だという諦念だろう。
すなわち、この映画は語る「私たちは、ただの欲望処理装置」
それは、現代が望む「偶像=アイドル」は大衆の消費物として、常に使い捨て続けられなければならないという確認に他ならない。
この現代の「美の虚像」に自らを捧げた殉教者こそ主人公「りりこ」である。
全身を世の女性の望む姿形に作り変えた、この少女の悲劇の原型を、人の勝手な都合で生み出されてそして葬られた、また別の映画の中に見出す。
その映画の名を「フランケンシュタイン」という。

そう考えれば、この映画は本来ファンタジーとして表現されるべきであったろう。また、蜷川実花監督のサイケで艶やかな映像もまた、本来リアリティを語るよりも、幻想世界によりフィットするように思われる。
この映画が、現実世界に引きずられたその理由は、監督の物語を語る視点の問題もあろうが、もうひとつ看過し得ないのは、「沢尻エリカ」という女優の起用である。
彼女「沢尻エリカ」の「スキャンダル」がオーバーラップした今作は、そもそも現実と映画世界がイメージとしても、物語としても重複してしまった。それゆえ表現として虚構世界の独立が妨げられ、現実世界の干渉が過重になったように思うのである。
この事は、この映画を観衆の「見たいものを見せてあげる」作品とする事に役だったかもしれないが、映画作品として表現を歪めさせる結果になってはいないだろうか?
仮にこの指摘が正しいとすれば、この作品にとっても、沢尻エリカという女優にとっても、不幸なことであったと思う。
誤解を避けるために言い添えれば、個人的に女優「沢尻エリカ」の演技は、今作も含め大好きだ。

その憑依の凄まじさを見れば、彼女は天才なのではないかとすら思う。
それゆえ演じる役ごとに、素の人格が消え去るほど役に没入するに違いない。
その異人格の状態で、人前で良識的な「自分」を演じることを求められる彼女は、混乱し「スキャンダル」を発生させてしまうのであろう。
しかし本来「仕事=演技」さえしっかりすれば、映画女優としてなんの問題もないと考えることは反社会的であろうか。
大衆の望む「キャラクター」に迎合し、その公私を混同した人格を切り売りする「タレント」という職業を、映画女優という特異なアーティストに求めるのは筋違いというものだ。
それゆえこの映画において記者会見後の数十分のシーンは、過剰であったように感じるし、最後のシーンに至っては「タレント・沢尻エリカ」に対する、監督しての同情ゆえのサービスカットとすら思える。
このシーンがあった事で、この映画自体が現実と虚構を自ら混同してしまったように思える。
この映画自体が「見たいものを見せてあげる」というような、マーケテイング重視の表現が何の力もない幻である事を語っていた事を考えれば、やはり、この映画は「女性たちの集合的無意識」の結実として主人公が血を流すシーンで終わるべきだったと思う・・・・・
そうすれば「実体なき美」の虚しさが際立ったのだ。

そもそも「真実の美」とは
世間大衆の嗜好など
はるかに超越した
高次に輝く「永遠」であり、
それは選ばれた者のみが
この世に表現し得る物だと、
個人的には信じている。
そして監督蜷川実花と女優沢尻エリカが、その選ばれた者たちだと思うが故に、この数十分を惜しむのである。
エンディングテーマ/AA=(エーエーイコール)の「The Klock」
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沢尻エリカのヌード以外記憶がないなあ(笑)
ありがとうございます。沢尻エリカ演技上手いと思うんです・・なんか乗り移ってる気がするんです。ハイ(^^;
ありがとうございます(^^)
実話、蜷川実花の写真がちょっと好きなんです。極彩色がクセになるという・・・・