評価:★★★★★ 5.0
名匠市川崑監督が描く谷崎潤一郎の耽美世界。豪華絢爛な日本美に酔います。
この映画は、大阪船場の旧家の四姉妹の人生を、四季折々の日本情緒のなかで、変転していく様をしっとりと描いています。
<細雪あらすじ>
昭和十三年の大阪、船場の名家である蒔岡家の生活を四季折々の風物と共に描く。
蒔岡家は長女鶴子(岸恵子)とその夫の辰雄(伊丹十三)、次女幸子(佐久間良子)とその夫・貞之助(石坂浩二)、三女・雪子(吉永小百合)、四女・妙子(古手川祐子)が暮らしている。今では本家に長女夫婦が住み、次女の分家に三女末娘が同居している。まだ未婚の三女・雪子は箱入りの令嬢で、水産技官野村(小坂一也)製薬会社の副社長橋寺(細川俊之)、華族の東谷子爵(江本孟紀)とお見合いを重ねる。また、四女・妙子は、啓ぼん(桂小米朝)や写真家・板倉(岸部一徳)酒場のバーテンダー・三好(辻萬長)と付き合う相手を変えていく。そんな折、本家では辰雄が会社から東京転勤の知らせを受け、鶴子が大阪を離れるか悩んでいた・・・・・
(日本/1983年/140分/監督・市川崑/脚本・市川崑・日高真也/原作・谷崎潤一郎)
この映画の中にある風景は、日本人なら誰もが既視感を覚えるものではないでしょうか・・・・・・
しかし、現代とは決定的に違ってしまい、そのせいで美意識自体に変化をおよぼした「モノ」があるように思います。
それは、「階級=クラス」と呼ばれたものです。
この映画の中でも描かれますが、家の格であるとか、本家と分家の関係とか、主人と召使いなど、今から見れば前時代的に思えるけれども、社会全体が貧しい時代には役に立つ社会制度として階級があったのです。
そしてまた、この制度の必然として生れたのが、上流階級と庶民とのハッキリとした違いでした。
上流階級に属する人々は着物からしゃべり方、挙措動作まで、見ただけでそれと知れたようです。
それは外見だけではなく、精神も含めて、上流階級に恥ずかしくない行いを求められ、社会全体の美や行動様式の規範・理想となるという「誇り=プライド」とともに、日々を生きたといいます・・・・
それがこの物語の矜持として、見る者に美をもたらしているように思います。
またその階級制度によって形成された社会秩序は、日本人の心の奥底にある郷愁を呼び起こしはしませんでしょうか・・・・
階級社会の善悪は歴史がきめる事ですが、それぞれの階級内でお互いに助け合い、各階級の距離をそれぞれ尊重し、つまるところ「人様に迷惑をかけない」ように自らを律するという、ごく自然に持っていた日本人の美徳。
それが第2次世界大戦前には確かに存在し、それはやはり日本社会の調和した姿として日本人の中に、今も眠っているように思うのです。
しかし、この映画の中でもすでに描かれているように、階級制度の崩壊とともに、この美も滅びて二度と取り戻すことはできないでしょう。
なぜなら戦後の総中流社会という日本人の意識は、特権的な意識や様式を許さないものですし、突出した生活ができない雰囲気があるように思います。
しかし、そもそも、美に中庸は有り得ず、それは常に突出した特権としてありはしませんでしょうか?
実は世界的規模で考えれば、これほど階級社会が崩壊した国は、日本だけかもしれないとさえ思います。
欧州でもアメリカでもアジアでも、多かれ少なかれ生まれた時に人生が決まるのです。
労働者階級に生まれれば労働者階級であり、貴族の子は貴族です・・・・
もちろん、個人的には今の日本は正しい方向を向いていると信じますし、私自身も公平な社会的競争を望む者です。
この娘達や名家の継承者たちは、なるほど何も産み出さず消費するだけかもしれません。
しかし、ある良質なモノを見極める眼力というもの、この真贋を見極める能力は、何世代にもわたる放蕩三昧という無駄の集積の果てにしか持ち得ない、絶対的判断力であり美にたいする感受性なのでは無いでしょうか。
古来そんな人々を数寄者=ディレッタントと呼び、階級の頂点にあって確かな鑑定眼によって、その国の文化の洗練の基準の役割を担ってきました。
旧家から迎えた妻を通してその力に気づいたとき、耽美を求めて東西南北を逍遥した文豪谷崎潤一郎ですら、その美の深く豊穣な世界に、大げさに言えば人生観が変わるほどの衝撃を受けたに違いありません。
その影響なくしては、小説家の命とも言うべき文体そのものが、かくも激しく変革した理由が分からないのです。
その結実としての小説「細雪」における文体は、流麗で典美な平安貴族の古典を思わせるような、日本の持つ美を静かに讃えるものとして今に残ります・・・・・・
これは、そんなある民族が持つ美の洗練を「映像」として留めようという、祈りにもにた映画のように思います。
もう一度申し上げますが、これは、かつて日本にあった美の洗練であり、そして二度と取り戻せない美でもあります。
その国の積み上げてきた文化の精華として「美」が有るとすれば、その美が失われることの意味は、その国、民族、文化にとって、重大な危機を示すものではないでしょうか・・・・・・
それゆえ小説もこの映画も、ラストは美と惜別する、どこか迷子のような旅立ちの光景で終わるのです。
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ありがとうございます(^^)普通にキレイですよ❤
お忙しいところコメントありがとうございます。
コメ閉じてマスね、またお邪魔しますm(__)m
個人的には無い方が良いけど、今の日本の教育はどうかと思う。
上下関係なし・・すべてが対等と思う若者・・
どうなのかな〜
話がそれましたスイマセン(^^;
ありがとうございます。私も平等を愛しますが、しかしミンナ一緒だからといってグズグズになっている様に感じます。
やはり、圧倒的な存在、例えばボクシングのチャンピオンというような、一般の人間が努力しても到達し得ない存在というものがあって、相対的に自分のポジションを知ることが必要なんではないでしょうか。
その上で、自分の目標に進まないと、世間をなめてしまうような気がします・・・・コチラも話がそれましたスイマセン(^^;