評価:★★★★★ 5.0点
今や古典とも言うべきスピルバーグ監督のこの一作は、大げさではなく「ハリウッド映画」を変革した一本だったろうと思います。
それは、誤解を恐れずに言えば、「主題=テーマ」を持たない物語であっても、商業的にヒットし得ると言う事実を、この作品が証明したためからだと思うのです。
ちなみに、タイトルの「E.T.」とは「Extra−Terrestrial(地球外生命体)」の頭文字をとったものだそうです。
<E.T.あらすじ>
アメリカの森に、宇宙船が着地し宇宙人が数人降り立った。人間たちが宇宙船に近づいてきたとき、宇宙人1人を地上にとり残し離陸してしまう。10歳のエリオット(ヘンリー・卜ーマス)は、兄マイケル(ロバート・マクノートン)妹ガーティ(ドリュー・バリモア)母のメリー(ディー・ウォーレス)にトウモロコシ畑で、宇宙人を目撃したことを言うが信じてもらえない。その夜ふけ、エリオットの前に宇宙人が彼の前に姿を現わす。宇宙人は、「エキストラ・テレストリアル」略してE・Tを呼ぱれることになる。E・Tは故郷の星に連絡をとるが、ついに瀕死の状態となり、エリオットは兄妹とその友達グレッグ、スティーブ、タイラー達とE・Tを故郷に返そうとする。そこに、宇宙服を着たNASAの科学者キース(ピーター・コヨーテ)達がE・Tを奪いにやって来た。E・Tの運命は・・・・・・(1982年/アメリカ/スティーヴン・スピルバーグ 監督)
この映画のテーマ曲は、ジョン・ウィリアムスの傑作だと思います・・・・・
そもそも、1970年代以前のハリウッド映画は大衆娯楽として成立し、大衆の夢や希望を描くことで成長をしてきました。
そこで重要な要素が、夢や希望という大衆の欲求に答えるべき「理念・理想」でした。
それは、女性達にとっての「恋・恋愛・結婚・幸福」だったり、男性にとっての「自由・平等・正義」だったり、つまるところ皆が共通して持ちうる「目標」として提示されたのです。
ハリウッド黄金期の理想を描いた作品
左:素晴らしきかな人生
右:めぐり合い
それは単純に、戦争の戦意高揚のプロパガンダなどの政治的な利用があったにしても、その「目標」を描くことが大衆の欲求に適い、より収益が得やすい作品になったからだと思うのです。
しかし時代が下り、TVが大衆娯楽の王となり、ベトナム戦争で正義が信じられなくなった社会情勢を反映し、それまでの価値観を否定するような「アメリカン・ニュー・シネマ」が現れ、更に「理念・理想」という絶対的価値に対して人々が懐疑的になるにつれ、映画は「理念・理想」を語ることが出来なくなってしまいました。
そこで描かれたのは、若者や、労働者という特定の観客層に向けた作品であり、それは結局かつての家族全てが安心して見られるハリウッドメジャー作品の失権を意味したのです。
実はスピルバーグがデビューした、1970年代こそ映画が共通の価値観を描けなくなった時期であり、それゆえ大衆のニーズを映画が見失ってしまい迷走した時期だといえるでしょう。
アメリカン・ニュー・シネマ作品
左:俺達に明日はない
右:卒業
そんな、細分化された、消極的価値観を描いた映画は独立系(インディーズ)映画会社が担い、メジャーなハリウッド会社は収益を上げることが出来ませんでした。
そんな、かつてのハリウッド映画のビジネス・モデルが通用しなくなった時期だったのです。
そんな時代にあって、スピルバーグはもう一度、家族全てが楽しめる映画を生み出したと思うのです。
その方法論とは、スピルバーグが意識的で有ったか否かは定かでは有りませんが、結果として「アメリカン・ニュー・シネマ」も「黄金期ハリウッド作品」もなしえなかった、「理念・テーマ・主題・主張」を語ることを放棄するという大胆なものです。
この近代の創作物においては革新的な作風によって、大衆のニーズを掴んだと思うのです。
つまり、価値観が多様化した現代において「共通の理想」を掲げられないのであれば、いっそ最初から語らなければ全ての人々に受け入れられる物語になるはずです。
しかし、過去の傑作がそうであったように、特に近代における物語とは「掲げられたテーマ」と、そのテーマを巡る対立のはてにカタルシスを生むのが、基本的な物語の構造でした。
それは「生と死」の対立が「生命」というテーマを表すように、「神と悪魔」の戦いが「正義」を表すように、基本的には人間の思考パターンをドラマに置き換えたものであったがゆえに、人々の苦悩やその救済を提示することが可能だったからです。
そう考えて見た時「テーマを語らない」ことは、ドラマから「背骨」を抜くような荒療治で、ほぼドラマとして瀕死に近いものと化すでしょうし、また人々が欲する「問題に対する答え」を提示し得ない点は、人々に対する訴求力が極端に落ちることを意味するでしょう。
しかしそんな、真ん中にぽっかり開いた穴を持つドーナツのような物語を、スピルバーグはどうやってヒット作に作り上げたのでしょうか。
私が気がついたのは、この映画は万人に受け入れられる要素をこれでもかと詰め込んでいると言う点です。
例えば、子供、ET(ペット)、は今も昔もヒットの条件ですし、何よりもSF的な道具立ては公開当時において革新的なSFXの力もあり、見る者全てが驚嘆する出来でした。
そして、キングコング、ゴジラの昔から、特殊撮影の進化は映画の興行収入の柱です。
そんな、万人に訴える道具立ての上で、速い展開と、はらはらするストリーは、見始めたら最後まで目を離すことを許しません。
ほんとに、コッテリとしたサービス精神には頭が下がりますし、たとえどれほど人をひきつける要素を並べたところで、だめな監督であればあっという間に観客はその「あざとさ」にそっぽを向いてしまいます。
仮に見ている間は目新しさに興味が持てても、見終わったあとで何か物足りなさを感じてしまうでしょう。
つまり、どれほど刺激が多くてもそれだけで「物語の穴」を、全て覆い隠すことは出来ないのです。
実はスピルバーグの初期の映画には、「穴」を埋めるためにテーマ不在で成立する、別の「物語形式」として「おとぎ話」の構造を持っていると思うのです。
むかしむかしで始まるこの物語は、常に「テーマ」を語ることよりも、人々の喜ぶ刺激を如何に作り出すかが眼目でした。
それは、むづかる子供や、聞き分けの無い子供を黙らせるための、有無を言わせぬ刺激の塊です。
例えば、これでもかと追い詰められる主人公、次から次へと襲い掛かる妖怪、強力な魔法や竜など、禍々しい刺激に満ちており、それが最後に思いも寄らない展開で「めでたしめでたし」で終わると言う物語は、単に面白いだけではなく、長い間に蓄積・改変されたイメージは、人間の無意識を揺さぶり、強力な「情動=エモーション」を呼び起こします。
そして、この「ET」を観てみれば、大人対子供という対決の構図といい、ラストの自転車で飛び立つ有名なシーンといい、「ピーターパン」のSF版だと、私には感じられます。
しかし、また「おとぎ話」ほど語り手の技量に左右される「表現形式」も無いのではないでしょうか。
満ち溢れる刺激を、効果的に、次から次へと、聞き手に悟られないように、聞き手の想像を超えて語るのは、決して簡単なことでは有りません。
やはり、観客の関心を見事に誘導し、畳み掛ける手腕は、「激突」「ジョーズ」でも見られるように、スピルバーグの卓越した力の証明だろうとおもいます。
あ、そういえばもう一人、映画界の「おとぎ話」の名手を思い出しました!
ハリウッドの巨匠ヒッチコックです。
この人は、作品にテーマ性が無かったために、天才といわれヒットを飛ばし続けても、アカデミー監督賞を取れなかったという人です。
やっぱり、巧い人じゃなきゃ「おとぎ話」は成立しないかもしれません。
最近の刺激ばっかり多くて、でも見たあとにぽっかり「穴」が開いた気持ちになるハリウッド超大作を見るにつけ、そう思います・・・・・
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ありがとうございます。おしゃるとおりスピルバーグさんて「1941」の人ですが・・・・・ナゼ1941?ジョーズ、激突、ジュラシックパーク、グレムリン、シンドラーのリスト、インディージョーンズ、AI・・・・・・いっぱいメジャー作品が。1941好きですけど、ジョンベルーシ出てるし(^_^;)
しかし実は未見です(^^;
レンタルででも借りて来てみなくては〜(◎_◎;)
ありがとうございます(^^)ありますね〜そういう作品。実は私シンドラーのリスト見てなかったりします(^^;