評価:★★★★ 4.0点
この映画の原題は「Whiplash」=「鞭打ち」だ。
これは、ビッグ・バンド・ジャズの定番ナンバーの曲名であり、劇中でも何度も演奏される。
この曲自体「鞭打ち」の如く、タイトなリズムを叩きこんでくる迫力に満ちたアンサンブルが特徴的だ。
Don Ellis "Whiplash" 1973年
そしてこの映画も、そんな厳しく苛烈なリズムを持って、迫ってくる作品である。
その迫力により第87回アカデミー賞の助演男優賞・編集賞・録音賞を獲得している。
正直言って、部活で辛い眼にあったり、過去にイジメや虐待を受けた人は見ないほうが良いと思う・・・・
<セッションあらすじ>
アンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は19歳で、バディ・リッチに憧れるジャズ・ドラマー。アメリカで最高の音楽学校、シェイファー音楽学校へと進学し、シェイファー音楽学校の中で最高の指揮者として名高いテレンス・フレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドに参加する。しかし練習が始まると、フレッチャーの怒声を浴びせられ、泣きながら退場させられるバンドメンバーを目にする。ニーマンはフレッチャーの練習が、椅子を投げつけられたり、屈辱的な言葉を浴びせられたり、頬を殴りつけられる、虐待に近い壮絶な物だと知る。ニーマンは全ての時間を練習に費やし、それでも足らないと彼女と別れる。厳しい試練を乗り越えて、正ドラマーの地位を獲得しコンペティションに挑もうとした時、思わぬアクシデントに襲われ、ついにつかみ合いの喧嘩となる。そんなニーマンとフレッチャーの闘いは続くのだった・・・・・・(2014年/アメリカ/監督デミアン・チャゼル)
何と言っても、この助演男優賞を取ったフレッチャー役のJ・K・シモンズの迫力がスゴイ!
この余りにも苛烈な教育現場の迫力は、『フルメタルジャケット』のハートマン鬼軍曹と双璧を成すものだろう。この二人の対決がいつの日にか実現する事を、1映画ファンとして心から望む。
関連レビュー『フルメタルジャケット』
『セッション』感想・解説 |
それはともかくこの映画は、「教育と体罰」の関係に集約できる。
ハッキリ言って、有名ミュージシャンに育てた教え子が自殺してしまうぐらい、この教師フレッチャーの教育は、体罰や精神的な屈辱も含め容赦ない。
また、この映画の主人公である生徒のニーマンは、父と二人暮らしで連れ立って映画に行くほど仲が良い。この描写は、明らかに成長過程において「反抗期」を経ていない「子供」の姿だと思えるし、その帰結として精神的に自立を果たしていない人格であるはずだ。
そんな彼が、生まれて初めてと言っていいぐらいの、過酷なシゴキを受けるのだからそのダメージは深刻だと想像できる。
少なくとも、体罰や虐待が「悪」である事は間違いない。
しかし、教育の場で体罰や精神虐待は、過去しばしば行われており、たぶん今でも報道を見る限り行われているだろう。
なぜなら、この教師フレッチャーやフルメタルジャケットのハートマン軍曹で明らかなように、体罰や精神虐待は人に変化を及ぼす強い力があるからだ。
極真空手の故大山倍達は、上がらないバーベルを上げるために尻に錐を刺したという。その痛みでバーベルを差し上げさえすれば、次からは普通に挙げられるのだそうだ。つまりは、人が限界だと思っている境界線を越えるためには、普通では考えられない力が必要だと言う事だろう。
あるバレー日本代表のセッターはコーチに言われるがまま4時間トスを上げ続けた。もう限界だと思っったとき、全身の力が抜けて理想的なトスが上がったのだと言う。これも、やはり己の限界を突破しなければ成し得なかった成果であろう。
やはり、人というのは一生懸命だとか頑張っていると自分で思っていても、どこかでセーブを掛けているのだ。
だから真に力をつけるためには、外部の強制力によって、自らの限界を超える必要があるということだ。
そのため、手っ取り早いのが「体罰」や「精神虐待」で追い込むことなのである。
従って、「体罰」や「精神虐待」は人が限界を超えようとする時には、有効な方法なのだと認めないわけにはいかない。
しかし、また同時に、こんな自分の限界を超えるほどのスキルを身に付けさせるための手段が、基礎的な教育現場で必要かといえば明らかに必要ないだろう。
こんな「体罰」や「精神虐待」が許されるのは、人間がいまだかって到達した事のない高みに向かって、自らを押し上げようとする者達のみが、自己責任において選ぶべき手段に違いない。
そして実はフレッチャーも、音楽という至高の存在にその身も心も委ねた求道者であるがゆえに、自ら見た高みに通じる道を示していたのではなかったか・・・・・・・・・・
この映画はそんな、人間を超えて「神」になろうとする者達の、苦闘と相克の物語だと思う。
この映画の主人公が求めた理想の人物が、下のバディ・リッチだ。
普通の人間が普通に訓練して到達できる存在ではない。
フレッチャーとの戦いの果てに、自立し、自分の限界を超えてこそ見えてくる「神ドラマー」である事は間違いない。
また同時に、この映画を撮ったチャゼル監督の次回作『ラ・ラ・ランド』を見ると、この監督のジャズ愛は筋金入りだ。
今や聞く人も減ったジャズの復権のためには、この位の厳しさを持って音楽を作り上げなければならないという「愛のムチ」だったかも知れない。
関連レビュー:ミュージカルの復権 『ラ・ラ・ランド』 アカデミー賞に輝くデミアン・チャゼル監督 エマ・ストーンとライアン・ゴズリング |
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ありがとうございます(^^)
メッチャクチャ、音楽に入れ込んでるんだろうと思うんです、タブン(^^;
いいキャラ出してますよ、絶対おちょくりネタにされるキャラですm(__)m
鬼のフレッチャー・・・怖すぎですよね(笑)
ラストは凄かったですね!
ありがとうございます(^^)でも、昔の部活の顧問ってこんな人良く居ませんでしたか?
いごっそさんなら、追い込んで限界を越えるという感覚がお分かりじゃないですか?