2016年09月01日

今敏『千年女優』アニメの開く虚構の新世界/解説・あらすじ・感想・意味

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評価:★★★★   4.0点

harasetuko.jpg「わたくしずるいんです。」

「わたし、いつだって夢のような事ばかり考えて・・・・・」

「いつまでも、こうしていたいんです。」


私はこのアニメ映画を見た夜の夢で、こんな原節子の夢を見ました・・・・・・
このアニメの主人公「藤原千代子」のモデルが、大スターでありながら銀幕を後にした原節子だと感じたからでしょう・・・・・・・
この映画は、そんな「現実世界」と「夢=非現実=虚構」が融合して、一つの物語世界を構築する作品だと感じました。
千年女優あらすじ
銀映撮影所が解体されることとなり、その70周年記念に、大女優として映画界に君臨しながら三十年前に銀幕から姿を消した藤原千代子にインタビューをする企画が立案された。千代子のファンだった立花源也は、その部下井田恭二と共に、インタビュアーとして千代子の隠棲する家を尋ねる。
立花は古びた小さな鍵を携えて、その鍵を藤原千代子に渡す。その鍵こそは藤原千代子が、昭和20年代、少女の時に愛した「鍵の君」と呼ぶ男性が彼女に残した物だった。藤原千代子は「鍵の君」を追い求めて女優になり、満州や、第二次世界大戦、混乱の戦後を、女優として生きたのだと思い出を語る。いつしか、回想の物語は現実と交差を繰り返すにつれ、一つに溶け合っていくのだった・・・・・(2001年/日本アニメ/今敏監督) 

この映画で現実のパートは「インタビューシーン」であり、夢の部分とは「藤原千代子の回想シーン」になります。
さらに、「藤原千代子の回想シーン」には回想シーン内の「映画シーン」が挿入されます。
そして、そのインタビューの答えを聞いているインタビュアー「立花源也と井田恭二の脳内イメージ」が、「藤原千代子の回想シーン」上に、重なり始め、ついには「回想シーン」は「藤原千代子と立花源也と井田恭二」の共同製作による「脳内イメージ」へと昇華していくように思われます。

つまり観客は、映画を見ながら、まるでマトリョーシカのように、無限に続く「脳内イメージ=虚構」のトンネルを進んでいくのです。

この「重複した虚構」の物語を更に「アニメーション」として製作する事で、実写映画以上に、より「強い虚構性」を持って見る者に迫ってきます。


つまり、この作品は何重にも積み上げた「虚構性の深化」を意図した作品だと感じます。
そう考えてみた時、現実とは何なのかと問われねば、虚構性を深くする事の意味も不明瞭に成るに違いありません。

いったい現実とは何でしょう。
それは、最も確実で単純な考え方をすれば、自分の身に起きた、実体験という事になるでしょう。
たとえば、赤ん坊が生まれて来て触れる現実とは、その赤ん坊の五感が届く範囲でしかない事になります。
しかし、本当の世界の広がりは自分の身の回りだけではなく、地球や宇宙やもしかしたら、多元宇宙という可能性まで含めれば広大な現実世界を持っている事を、私たちは知識として知っています。

つまり、我々は本来一個人として触れるべき「個人の現実」の他に、実際には触れ得ない「想像上の現実」を持っているという事になります。
そして、この想定に立てば、「個人の現実」や「想像上の現実」という人間が認識し得る世界を超えた「現実」があるとも考えられるはずです。
例えばいま我々は、水を入れた風船が割れた時の姿をどう思い浮かべるでしょうか?



実際は、下部右の画像が人間の視覚に見える現象です。これは、個人の体験として触れられる「現実世界」です。
しかし、上のスーパースローの形で何万分の1秒の「現実世界」では、風船が割れているのです。
そしてこの風船が割れる姿は、赤外線の眼を持つ虫達には「違う現実世界」として見えているし、聴覚や触覚が発達した生物にとっても「違う現実世界」として感知されているはずです。
結局、人間が感じられる世界や、このスーパースローのように知識として知った世界の他に、人間か感じられず、想像も及ばない「現実世界」も存在するに違いああリません。
そんな三つを含む「現実世界の総体」とでも呼ぶべき物が理論的には存在するはずです。

つまりは「現実世界の総体」から見た時、映画という虚構も、人が現実だと感じている世界も、等しく人の心が生んだ幻ではなかったでしょうか・・・・・・・・・結局「現実世界の総体」から見れば、人間の言う現実は皮相な「虚構」でしかないとすら思えるのです。

この映画では、主人公が少女の時に会った「鍵の君」を、その憧れの人の忘れ形見の鍵を持って、追い続けます。それは、まさに現実世界に存在する者を探すというよりは、自らの心の中の「憧れ=虚構」を追い求める姿であると感じます。

そして、その「憧れ」を追い求める、この女優をインタビューする側も、この女優に憧れているのです。
こんな、どこまでも追い求めて、手にし得ない、そんな「憧れ」をスクリーンに投影したモノこそ「映画」ではなかったでしょうか・・・・・・・

けっきょくこの映画が語るのは、人は「憧れ=虚構」のために「映画=虚構」をつくり、その「映画=虚構」を「憧れ=虚構」を持って見るのだという真実だったでしょう。
そして、この人間の果てる事の無い憧憬「虚構の重複」こそ、「現実世界の総体」に触れるための唯一の道のようにも思えるのです。

なぜなら人間の感覚を超えた「現実世界の総体」は、それが人間の持つ知覚や知識を超えたところにある以上、そこにいたる鍵は「人の現実」からは想像し得なかった「虚構」によってのみ到達できると信じます。

考えて見れば、それは、過去の卓越した芸術家や科学者たちが、その鋭敏な感性を持って「虚構」を生むことで「現実世界の総体」を切り崩し、人類は「人間の現実」の範囲を広げてきたのではないでしょうか・・・・・・
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その虚構を生成する道具として「アニメーション」がどれほど有用かを示したのが、この作品であるように思うのです。

「私ずるいんです。私いけないんです・・・・」と夢のなかの原節子が言った
「いや〜いけなかないさ。それでいいのさ」と、夢の中で笠智衆になった私が言った。
「じゃーいいんですの。私は夢の中で永遠に生きても?」
「そうさ。それでいいのさ」
そういうと、原節子と私は虚構の奥へ奥へと、歩んでいくのでした・・・・・
その先に、確かに今敏監督の影を見たような気がします。
それで、もう、ずっと眼がさめることはないのだなと覚悟しました。


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ラベル:今敏
posted by ヒラヒ・S at 17:53| Comment(4) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは😃原節子さんて日本人離れした顔ですね。綺麗ですな〜🙆映画おもしろそうですね。過去から未来から忙しそう🎵
Posted by ともちんと at 2016年09月01日 19:56
>ともちんとさん

ありがとうございます(^^)原節子さんはハーフという噂もあったようです。映画は映画の中に現実が映画に現実が入るような迷宮感があります。ところで、お仕事大変ですか?お体大事にm(_)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年09月01日 21:33
沖縄から帰ってまいりました。
明日からまたよろしくお願いします(__)
Posted by いごっそ612 at 2016年09月02日 20:42
>いごっそ612さん
ありがとうございます(^^)
お帰りなさい(^^)ノシ
Posted by ヒラヒ・S at 2016年09月02日 21:19
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