評価:★★★★ 4.0点
この映画は、モノクロ映画で、しかもサイレントだ。今この時代にそんな旧弊な表現形式をとる必要があるのかという疑問を持たざるを得ない・・・・・・
その考察を進める前に、イキナリだが、飲食店に入って困ることの一つに、BGM音楽がある。
このバックグラウンドミュージックというヤツに、結構な頻度でジャズが使われているのである。
しかし、ジャズ好きの人間からすると、例えばマイルス・デービスなどが流れてきたりした日には、おちおち食事もしていられないし、会話すらしずらい。
なぜなら、ジャズというのはメイン・テーマの後にプレーヤーが、楽譜なしで即興で演奏を繰り広げる音楽なので、綱渡りのような不安定さリスキーさが身上であり、聴いていてハラハラしてしまい、聞き流せる類のモノではないのだ。
だから突然、上のような演奏がラーメン屋で流れてきたりすると、ラーメンが鼻から出てくるぐらいビックリする。
だが、そのことを周囲の人間に訴えてみてもあまり賛同を得られない。
たぶん、現代のロック・ポップスを聞きなれた耳には、ボーカルの入っていないジャズは、聞き流せる部類の音楽なのだろう。
つまり、表現様式が違えば人によって受け取り方が、これほど違うという良い例ではないだろうか。
前置きが長くなったが、映画である。
この映画は、モノクロ映画で、しかもサイレントだ。
つまりは、ジャズ同様、今の流行ではない表現様式を敢えて取っているのである。
しかし、ジャズはそれでも現役の表現様式で、楽器だけで演奏することに必然性がある。
しかしこと映画に関して言えば、モノクロはまだしも、サイレントは、現代の映画としては既に死んだ表現だと言わざるを得ない。
なぜなら、サイレントは映画のドラマを伝えるには、あまりに効率が悪い。
現代の映画のほぼ100%がトーキー(音声入り映画)で発表されている事を考えても、どれほど無理がある表現形式か知れようというものだ。
そんな死んだ表現を、敢えて引っ張り出してくる以上、そこにはサイレントでなければならない必然性が必要であるだろう。
実を言えば、「アーティスト」というフランスのミシェル・アザナヴィシウス監督が2012に作ったアカデミー賞を取ったモノクロ・サイレント映画があった。
この映画は世評が高かったが、個人的には怒りを覚えざるを得ない作品だった。
それは、詳しくは「アーティスト」レビューを見て頂きたいのだが、表現者たる者は自らの思いを観客に伝達するために、最も効率のよい表現手段を選択しなければならないという基本前提に立った時、『アーティスト』のサイレントはサイレントの様式でなければならない必然を、その物語に持っていないと思えたからだ。
関連レビュー:現代のサイレント映画
『アーティスト』
オスカー受賞の現代サイレント映画
この映画はレイプか?
それでは、なぜ「アーティスト」が撮られたかといえば、そこには監督の「ボク、サイレント映画なんか撮れちゃうんだよ、イカシテルデショ」という、利己的な功名心しか感じられなかったから怒りを感じたのである。
そこで、この映画である。
物語はグリムの「白雪姫」を、20世紀初頭のスペインを舞台に置き換えた、ノスタルジックな映画だ。
しかし正直に言えば「アーティスト」の二の舞になるのではないかと恐れていた・・・
<ブランカニエベスあらすじ>
1920年代のアンダルシーア地方、闘牛士アントニオ・ビヤルタ(ダニエル・ヒメネス・カチョ)は絶大な人気を誇るマタドールだったが、ある日の闘牛で瀕死の重症を負ってしまい、四肢付随になってしまう。その身重の妻カルメンは、ショックで娘を早産し、息絶えてしまう。失意のアントニオを、看護婦エンカルナ(マリベル・ベルドゥ)が看病するうちに、二人はついに結婚することとなる。しかしエンカルナの目的はアントニオの財産であり、生まれた女の子カルメンシータ(マカレナ・ガルシア)とその父親アントニオは、女帝のようなエンカルナに支配される。そしてついにアントニオはエンカルナにより殺され、カルメンシータも襲われる。カルメンシータは川で溺死したかと思われたが「小人の闘牛団」に救われ、そこで女闘牛士として人気を博す。しかし、そんなカルメンシータを毒リンゴをもったエンカルナが狙うのだった・・・(2012年/スペイン/パブロ・ベルヘル監督)
そういうこの物語を、サイレントにする必然性があったのかという問いの答を得ることこそ、このレビューの本旨である。
結論から言えば、私はこの映画が「サイレントで撮られる必然性がある」と信じる。
それは、この映画のビジュアルが真実、見事だからだ。
それは、従来の白黒銀鉛フイルムで撮影し、慎重にネガからプラチナ印画紙に焼き付けたような、陰影の深さと諧調の見事さで永遠を保持したような画像が、見る者の心に戦慄を呼びはしまいか。
このアート写真を積み重ねたような、見事な映像の集積を逃さず観客に提示するには、言葉は間違いなく邪魔者だろう。
さらに撮影技法で言えば、サイレント時代には決してなかった手持ち撮影の技術を使用している点も、ただ過去のサイレント映画を模倣するだけではない、サイレントの表現の革新を求める気概が感じられて好ましかった。
また、サイレントである必然を感じたのは、この物語が「白雪姫」に姿を借りてはいるものの、ノスタルジーの物語だと思えるからだ。
この映画は闘牛と闘牛士の物語だが、現代スペインでは今は闘牛が下火になり、セビリア州では闘牛禁止を決定するほど世間の反対意見も強い。それはまた、「小人の闘牛」という障碍者の見世物化も今では困難な催事であるに違いない。
つまりは、この映画の闘牛や障碍者の見世物とは過去のスペインの「旧き良き時代」の象徴なのである。それは、決して褒められたものではないかもしれないが、しかしその民族が過ぎ去った過去に郷愁を感じることをどうして責められよう。
そして、実は全ての20世紀を経た民族にとっては、ノスタルジーとは「華やかな郷愁の香」と「苦い世界戦争の傷」の二つを持つものだったはずだ。
更に言えば、スペインにとっての20世紀はフランコのファシズムとの戦いだった事を思えば、それゆえ、ノスタルジーを語る時どこか口ごもりはしないだろうか・・・・・・・・
この映画では、そのノスタルジーを生む「旧き良き時代」の姿が、決して明朗快活な存在ではない事を十分認識しているがゆえに、「沈黙=サイレント」するのである。
この映画のラストで、旧きよき時代に殉じ、自らをその時代に封印したような主人公が涙を流す。
その涙を見るとき、サイレント映画のようにその時代を美しく輝かせ人々を魅了した「モノ」が、いつしか古びて消え去っていく運命にあることに対して、沈黙を持って惜別の意を表しているような切なさを持つ。
この映画は、そういう意味でサイレントとモノクロでなければ、決して成立しなかった作品であると信じる。
というのが、この映画の評価なんですが・・・・
実は冒頭のジャズの演奏を聴いても、
聞き流せる人がたくさんいるように、
このサイレントという様式を許容しえ
ない人も必ずいると思います。
上手く言えませんが、芸術表現と言う
のは、そんな作品と鑑賞者の間に響きあう「モノ」のような気がします。
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ありがとうございます(^^)この映画はサイレントの必然性を感じました。
「アーティスト」も評価は高い作品ですから、私のナンクセは気にせず見てやって下さい(って保護者か)m(__)m
サイレント映画は個人的にはこれ名作!とか思ったことが無いので苦手です(^^;
ありがとうございます。
あくまで、個人の意見ですので・・・・こんなこと言う奴もいるとお考え頂ければ・・・・サイレントは今撮るのは、無理がありますよね。
サイレント様式で実は一つ無理がない作品があります「ル・バル」という作品で、私大好きです。「YouTUBE」で全編見れるようですセリフが一つも無いのでそのまま見れます(^^)