評価:★★★★ 4.0点
原題を「鉄十字勲章」というこの映画は、暴力映画の名匠サム・ペキンパーのちょっと珍しい映画だ。
珍しいというのは、この映画が第二次世界大戦末期のナチスドイツの対ロシア戦線を描いた、アメリカ映画だという点にある。
<戦争のはらわたあらすじ>
1943年ドイツの敗戦が濃厚となった、ロシア戦線。古参兵スタイナー伍長(ジェームズ・コバーン)は、ドイツ軍はソ連軍の反撃の前に後退し続ける戦線に有っても、彼の小隊を率いて死に物狂いの戦闘を続けている。そんな時、スタイナーの所属するブラント大佐(ジェームズ・メイソン)の連隊に、貴族の末裔で名誉欲が強い新任の中隊長ストランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)が派遣されて来る。彼は“鉄十字章”を家名の名誉に賭けても得たいという執念を持っていた。ブラント大佐と副官キーズリー大尉(デイヴィッド・ワーナー)は、スタイナー伍長(ジェームズ・コバーン)と折り合いが上手くいかないのではないかと危惧する。
案の定、名誉欲の強いストランスキーとスタイナーは衝突し、退却命令が下ったにもかかわらずストランスキーはスタイナーを前線に出し亡き者にしようとする。そんな困難な戦場に放り込まれてもスタイナーは、ソ連兵に化けて自軍に戻るための戦いを続けるが、そんな彼を待っていた運命とは・・・・・・・・・・
主人公を演じるジェームズ・コバーンはドイツ軍の曹長役であり、この主人公は敗色濃厚なドイツ軍の中で、小隊をまとめて数々の功績を上げた古強者だ。
彼は、ロシアの少年兵を助けたり、自分の小隊の兵士でも悪事には厳罰を持ってあたる、正義感を持つ男でもある。
つまりは、アメリカ軍兵士を主人公にしたのとなんら変わらない「正しい人格」を持ったドイツ軍兵士を描いている点で、特異なのである。
普通であれば、第二次世界大戦が描かれれば、ナチスドイツは世界中で悪役として描かれる。
しかし、この映画を撮ったサム・ペキンパーは、ドイツ兵士を悪役としては描いていない。
この点を追求したとき、サム・ペキンパー監督と暴力描写の関係が重要であるように思われる。
サム・ペキンパーという監督は一貫してアクション、バイオレンスなど活劇シーンにこだわり続けた。
そのスローモーションを使ったアクションシーンは「暴力の美学」と呼ばれるほど、美しく華麗でなものだ。
さらにその映像は、近代において人類が見出した「真・善・美」に拠らない、一種の歪んだ形象が持つ「表現主義的」な芸術力を保持すると思うのである。
サム・ペキンパーは、その独特の「暴力の美」の表現を追求し続けたところを見れば、「暴力」のもたらすその崩壊と破壊の中に、芸術的な力を認めていたに違いない。
しかしペキンパーが「暴力」に美があるということを気付かせたとき、映画の歴史上で重大な革命が起きたと思えてならない。
冷静に考えてみれば、本来「暴力」とは悪であった。
映画内で描かれる「暴力」とは、そもそも「悪人」が行使するものであり、その悪逆に対する正当防衛として「正義」の側が「鉄槌」を下すという構図が本来の意味だったはずだ。
つまり正義の者にとって「暴力」は致し方なく振るわれる、本来「邪悪な行い」であるという、共通認識があった。
それゆえ暴力シーンは、映画内においても非常事態として、「事件」として描かれてきたのだ。
しかし、それが時代が下がるにつれ「暴力=悪」という公式が揺らぎだしたのは、戦争のせいだったろう。戦時下において「戦意高揚映画」が作られれば、そこに描かれたのは、自国の為に行使される「正義の暴力」だった。そこには正しい行いとしての殺人や破壊に満ちていた。
こうして正邪が曖昧になった暴力表現は、マカロニ・ウェスタンなどの「空想西部劇」で語られたアクションの変容をうけ、ついにペキンパーの「耽美的暴力」によって、すでに他者を傷つける行為としてではなく、美しく華麗なスペクタクルとして、一種の「ファンタジー化」を果たす。
そのバイオレンスは現実の破壊を意味するものではなく、映画内の抽象化された象徴的行為として、美しく咲き誇った。
ここにおいて、映画内のバイオレンスは「芸術的価値」を保持し得たのである。
それ以降のハリウッド作品における、映画ジャンルとしてのアクション活劇の本数の増大や、映画内の暴力シーンが占める割合の増加は、この「耽美的暴力」というファンタジー作用によって、「暴力=悪」として語られるべき本質を無視するための免罪符として作用したと思える。
そんな暴力の抽象化を推し進めたペキンパー監督だからこそ、この映画を撮らねばならなかったのだろうと想像する。
それは自らの「暴力の美学」が、映画における「暴力」を語る免罪符となったとき、この監督は自らの作品がもたらした「暴力表現」を検証・批判せざるを得なかったのではないだろうか。
ペキンパーは「耽美的暴力」の追求を通じて、映画が暴力を美しく描く装置として、いかに効率よく機能し得るかを証明した監督であったろう。
つまり、それはドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが語った国家というものの本質が「権力という暴力にある」として「国家=暴力装置」と規定したことに従えば、ペキンパーの映画を見るとき映画という大衆芸術の本質とは「暴力や刺激にある」という「映画=暴力装置」なのだと主張したい。
それは、国というものが国民を従属させる為に絶対的権力を必要とするように、映画も観客を服従させるためには絶対的な刺激や暴力を必要とする。
そして、そのペキンパーの生み出すアクションの美しさが映画の「暴力装置」としての機能を、高めていったとき、行き過ぎた権力が革命を生むように、作家サム・ペキンパーの心の中に行き過ぎた暴力に対する警戒心が芽生えはしなかったか。
その「暴力」の本質を描くために、この映画で「アクション」が本来「暴力」「悪逆」「罪悪」を意味しているのだと警告を発していると思うのである。
そう思えば、最初に述べた、本来悪役であるはずのドイツ軍兵士の主人公が、人間的に正しい「真・善・美」の価値観を持っていることの不思議さの意味が分かる。
つまりは、正しい価値観を持つ普遍的な人類の誰もが、ナチスドイツのような暴虐を行う、潜在的な性質を持っており、どんな人間であろうと暴力に喜びを見出すのだという事実を示しているだろう。
そして、更に映画内で主人公が負傷し、除隊の権利を得たにもかかわらず再び戦地に戻っていくとき、この正しい人間であっても暴力に中毒性があり、一度暴力の味を知ってしまえば更に暴力を行使したくなると、語られてているだろう。
それは、彼と対立していた士官が、主人公を殺せたのに殺さずに、最前線に飛び込んでいく姿に象徴的だ。
つまりは、より激しい暴力を求めて火中に飛び込む姿は、暴力の快楽と依存性を示しているだろう。
そしてエンディングに流れる主人公の哄笑は、暴力が持つ愉悦の深さを示して慄然とする。
ここで描かれた戦争は、暴力行為の持つ中毒性や快楽を深く抉っている。
そしてその思いは、偏執的なまでに「暴力の美」を表現したペキンパー監督自身の中毒症状の告白で有ったのかも知れない。
しかしそんな危険を知ったこの監督だからこそ、その暴力に付随する人を魅了する力の強さと同時に、この映画で暴力の持つグロテスクさを強く表現した。
その暴力表現の残虐性は、従来の美しいストップモーション撮影もありはするが、従来にはない「ちぎれた腕」であるとか「はみ出たハラワタ」に現れていただろう。
その印象が当時余りに強烈だったからこそ、「戦争のはらわた」という日本題になったのだと想像する。
つまり、この映画は自らが切り開いた「暴力表現」の抽象化を、再び現実に還元し、現実における「暴力の残虐」を世に問う作品だったに違いない。
そこには、暴力が持つ危険性を強く訴え、世間に警鐘を鳴らしたいという意図が有ったと信じている。
惜しむらくは、現在の暴力シーンで満ち溢れた映画を見慣れた眼には、そのショッキングな映像を衝撃として捕らえられないという事だ。
その「暴力の残虐性」がビジュアルとして感じられなければ、この映画の伝えるメッセージはその力を喪うだろう。
しかしそれも、サム・ペキンパーの「暴力抽象化作用」が「暴力装置」としての映画が効率よく機能したがゆえにもたらした、暴力の氾濫にその原因を求めるとすれば、この映画が力を喪ったという事実自体が、彼の映画界に及ぼした影響の強さを物語る「鉄十字勲章」だったかもしれない。
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レビュアンさんも書きましたかあ!
かなりの暴力的な映画なのですね!そしてこの題名になった意味が分かりました(__)
ありがとうございます。ガサツ?何のことでしょう(笑)
ペキンパーの映画は、アクションの描写革命だったように思います。あ〜「ワイルド・バンチ」「ガルシアの首」がみたい!
ありがとうございます。
ともちんさんのブログを見て、あ〜凄い映画だって思い出して、古いDVDを引っ張り出して、もう一度見た感じです。
皆様に支えられて、ナントカ成ってますm(__)m