
評価:★★★★ 4.0点
この映画の題名「紀子の食卓」から、日本映画の巨匠・小津安二郎を思い浮かべた。
小津の代表作は女優・原節子と撮った「紀子三部作」であり、そのドラマは食卓(茶の間)で完結する家族の物語なのである。
日本の映画人ならば知らぬはずのない、この名前「紀子」を敢えて使う以上、確信的に小津の作品群をこの映画の基礎としているとしか思われない・・・・・・
またこの映画は、園子温監督の「自殺サークル」の後に撮られた作品であり、時系列から言えば新宿駅・女子高生集団自殺の前後を描いていることになる。(『自殺サークル』レビュー)
その自殺クラブで語られていたのは、他人との関係性に依って自分が何者かを確認している現代人が、その他者との関係が希薄に成っていたときに、すでに肉体的傷み、ついには自殺によって自己確認せざるを得ないほど、追いつめられているという物語だと、個人的には解釈している。
それでは、その先行する映画を追って、この作品が語るものとは何だったのだろう・・・・
〈あらすじ〉
女子高生の島原紀子(吹石一恵)は、同じく高校生の妹・ユカ(吉高由里子)、新聞記者の父・徹三(光石研)、母・妙子の4人家族。紀子は、“廃墟ドットコム”というサイトで「ミツコ」と名乗り、そこでハンドルネーム「上野駅54」や他の仲間たちと知り合う。紀子は家出して東京へ向かい、「上野54」ことクミコ(つぐみ)と会う。東京では、家族を求める人々をお客にして家族を演じる、レンタル家族の一員となる。そこで紀子は「ミツコ」としてさまざまな役割を演じる。そんな時、新宿駅のプラットホームから女子高生54人が集団自殺が起きる。その謎を解く手がかりを、妹・ユカは“廃墟ドットコム”の中に発見し姉を追って東京へ行く。ユカの父徹三は仕事をやめ二人の行方を調べ始めるが、母・妙子は心労から自殺してしまう。それでも徹三は、紀子とユカの消息を突き止め、クミコを母親役、紀子とユカを娘役として指名し、家族として対面の時を迎える。
この物語で語っているのは、「自殺サークル」で語られた、現代日本人が他者との関係性を構築できずに「自分が自分であるという確認」=「自己証明」が出来ない理由を、家族から解き明かそうとした映画だと感じた。
とはいうものの、正直に言えば「紀子」が家を出た理由、家庭に不満を持っていた理由が今ひとつ不明瞭に感じた。冒頭、東京に進学したいのに進学させてくれない父親との確執が語られはするが、それが彼女を突き動かしたという明瞭な描写は無い。むしろ、もっと漠然とした満たされなさ、不充足感が根底にあり、そのクラゲのような曖昧さ、不確かさから逃れたいという心理によって、彼女を東京に押し流したように思われる。
結局その不満の正体が何なのかと、問われなければならないだろう。
そして、東京に出てきた「紀子」が「ミツコ」になり、擬似家族の役割を演じたときに、「私は私とつながっている=自己存在の確認」が成されるとき、その漠然とした満たされなさの正体は「家族関係の喪失」にあると感じた。
ここで描かれた家族は現代日本の標準的家族であり、父親が仕事を優先していると描かれてはいるものの、飛びぬけて異常なわけでもない。
つまりは「現代日本の標準的家族」は家族として機能不全に陥っているのではないかと、語られているのだろう。
その家族の機能不全、「家族の一員としての自己を失った」現代日本人が、自らの立脚点を明確にし得ないがゆえに苦しまざるを得ないのだと語られているのではなかったか。
それは、紀子をミツコに変えたクミコが、親から捨てられコインロッカーで発見されたと語られるとき、クミコは家族を持たないがゆえに自らの存在証明が成しえず、常に他者を演じ最終的には自分が自分であることの確認は、自殺による自己の消滅によって初めて証明されるだろう。
それゆえクミコは、死を迎えた者達を一段高い「ステージ」に上がったと表現したのだろう。
そして、この島原紀子、妹・ユカ、父・徹三、母・妙子の島原家4人家族の崩壊は、そのまま現代日本において家族が、その構成員を幸福にし得ない、つまりは家族という制度が機能していないという事実を示している思われる。
そして、この家族は本来の血族としての「つながり」を一度白紙にもどして、意識的に家族を演じることによって自らの存在証明を得ることができると劇中で語られているだろう。
しかし、もう一度整理してみよう。
この映画の「紀子」は成育した家族によって、自分である事が適わなかった。
それゆえ「ミツコ」となって、虚構の家族を演じた。
「ミツコ」はその「虚構=フィクション」の上で、自己の存在証明ができた。
つまりは、家族が機能していない現代日本人は「嘘=フィクション」を演じることでのみ、自らの存在証明が可能だということになるが、しょせん嘘であることを考えれば、自己の存在そのものが「虚構=フィクション」だということになるだろう。
つまるところ、現代日本人は自分自身として生きる道が、家族の機能不全によってあらかじめ閉ざされているのだと言わざるを得ない。
それゆえ、家父長制の下での家族間の完璧な調和が保たれていたがゆえに、静かな茶の間を描きさえすれば「日本の美意識」が成立しえたのである。
対する平成の「紀子」は、これまで見て来たように、もうすでに「紀子」でいることができない。
したがって、家族という「虚構=フィクション」を作り上げるために、血を流し、それでも絶望し死を迎えなければならない。
けっきょくこの映画が語ったのは、昭和の人々が違和感なく「家族」でいられたことに比べ、平成の「家族」はこんなにも混乱し傷つき血を流す運命なのだという真実だったろう。
しかし、そもそも「日本の家族」それ自体が、生物世界の食物連鎖の如く、家族の誰かを犠牲にすることで成り立つ人間関係であったのかもしれない。
その日本家族の欺瞞が、平成の「紀子」および「島原一家」にとっては誤魔化しようがなくなったように、今の日本人にとって旧来の家族制度が強要する役割は、すでに受け入れ難いモノだと語られているだろう。

それでは、今日これから生き続けなければならない日本人は、この映画のように傷つき血を流し続けなければならないのだろうか・・・・・・・
希望は描かれている――――
この映画の最後で、吉高由里子演じるユカが言う「誰だかわからない私が歩いていく」というセリフだ。
そこには、家族としての自分ではない、自分を自分として素のままに生きる者として存在せよというメッセージがあるように思う。
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ありがとうございます。
すいません、訳わかんない映画なんで、訳わかんない理屈つけちゃいましたm(__)m
おじ2が立ってられないくらい泣き崩れたというのが、むしろ感動的ですね・・・・いいお母さんだったんだろうなぁ〜ご冥福をm(__)m
レンタル家族という題材・・吉高由里子のデビュー作ですね。
現代社会の構図とマッチさした解説は流石です!
ありがとうございます(^^)あーそうか、吉高由里子のデビュー作なんですね。次は、冷たい熱帯魚辺りを・・・・・