評価:★★★ 3.0点
山口百恵という時代を担った女神の覚悟に、賞賛を贈りたいというのがこの文章の趣旨です。
この映画『春琴抄』は山口百恵と三浦友和、昭和のゴールデンカップルのコンビ5作目となる1976年の映画作品です。
谷崎潤一郎の春琴抄は、何度も映画化され、近年では2008年に長澤奈央と斎藤工で映画化されています。
あらすじ
明治の始めの大阪道修町の薬種問屋・鵙屋を舞台に始まる。
鵙屋の娘お琴(山口百恵)は小さいころ失明し、以来、琴の修業を続けている。そんなお琴の身の回りの世話を丁稚の佐助(三浦友和)が務めていた。お琴の教えるままに佐助は三味線のけいこをするようになった。そんな師匠と弟子、主人と奉公人という関係はさらに深くなっていく。そんな時、お琴に言い寄りフラれた弟子の腹いせでお琴は顔に熱湯をあびせられ顔に火傷を負う。佐助はお琴に傷ついた顔を見るなと言われて、苦悩するが・・・・・・・・・・・・・・
出演は山口百恵(お琴)三浦友和(佐助)中村竹弥(鵙屋安左衛門)風見章子(鵙屋しげ)津川雅彦(美濃屋利太郎)中村伸郎(春松検校)など。
この原作は古典としての品格の下に、秘めた官能が脈打ち、その典美と妖艶のせめぎあいが、更に作品に奥行きと精妙さをもたらしています。
その谷崎の小説を、この映画では華麗に格調高く描いていると思いました。
特に主役である山口百恵の際立たせ方は、照明といい、アップの肌理細やかなカメラワークといい、職人芸といってもいいほどのものです。
これは、監督・西河克己の持つ「アイドル映画」作家としての高い技量が発揮されたからだったでしょう。
この監督は昭和60年代日活で吉永小百合の主演で、『若い人』、『青い山脈』、『伊豆の踊子』などの作品でヒットを飛ばしています。
その力を見込まれて、山口百恵が所属していたホリプロから声が掛かったという事情もあったようです。
そういう意味では、この映画はホリプロによる「山口百恵というアイドル」の価値を高めるための作品として企画され、その監督として実績のある西河克己を起用したということでしょう。
それでは「アイドル映画」というのは、なんでしょうか。
たとえば、映画メディア主体であった昭和20年代〜昭和50年代は、アイドルという存在は居ませんでした。
そこに居たのは、「映画スター」という輝くべき星だったのです。
昭和60年代ともなると、アイドルの先駆的存在が出てきます。
それが先に例の出た日活映画でスターとなった吉永小百合や石原裕次郎、赤木圭一郎、浅丘ルリ子などの「青春スター」達です。
しかしこの時点では、彼らを指し示す語は、まだ「スター」でした。
実質的にアイドルという呼称が日本で聞かれるのは、フランス映画「アイドルを探せ」、ビートルズ「Help!僕らはアイドル」からでは無いでしょうか?
それゆえ、初期のグループサウンズはアイドルとして呼ばれることがあったようですが、そのブームが去ると実質的にその呼称は、70年代TV出身の10代の歌手達の代名詞となりました(そのアイドルを輩出した番組が「スター誕生」という名前だったのも皮肉な話ですが・・・・・)
70年代アイドルの存在とは、端的に言ってTVというメディアで最も輝きを発する芸能人だったと言えるでしょう。
70年代当時のTVに登場する「タレント」とは、優れた容姿・技能を持つ人々と規定され、人より秀でた「タレント=才能」があることが前提で選ばれた人々だったのです。
しかし、それは60年代の映画スターの矮小化と言えるのではないでしょうか。
たとえば、片岡千恵蔵という大スターは現在価値に換算すれば年収20億という、ハリウッド並みの収入を得ていたそうです。
さすがにそんな大御所でなくとも、後年TVタレントとして活躍した南田洋子も昭和30年代に日活でスター女優の時には、会社から贅沢をしなければ売り物にならないと言われ、強制的に月200万使えと強制されたそうです。
つまり、映画スターというのは庶民の手に届かない高みに上がれば上がるほど、商品価値が上がる人達だったのです。
しかし、映画黄金期がすぎTVの時代になって来た時、小さな芸能プロダクションが映画スター並みのギャラを払うわけにはいきません。
結局収入に見合った「ビジネス・モデル」として生まれたのが、映画スターのTV廉価版が「アイドル」だったと思うのです。
それは、映画からTVに移行する中で、人々の憧れの存在が「スター」から「アイドル」に移行し、更にアイドルが時代が下るほどに「矮小化」「日常化」し庶民的になっていくという経過をたどったと言えるでしょう。
再び言いますが、そういう経緯の中で ”「アイドル映画」というのは、なんでしょう”というのが本題です。
過去のアイドルの歴史の中で、山口百恵の70年代の「アイドル」が「映画スター」の廉価版だったとするとき、芸能プロダクションは所属する「アイドル」の価値を高めるための戦術が「映画スター」の価値観を「アイドルに付与する事」、ぶっちゃけ「映画スターのふりをする事」だったと思うのです。
それは、「映画スター」の「TV的矮小化」された存在「アイドル」を、再び「映画スター」と同等の、人々から隔絶した「スーパースター」に押し上げることを意味します。
つまり当時の「アイドル映画」とは、アイドルに「映画スター」のステータスを付与する手段だったと思うのです。
そんな、神格化を最も効率的に成し遂げたのが「山口百恵」だったのではないでしょうか。
この映画がそうであるようにかつての「映画スター」の作品をリメイクしたり、文芸小説を映画化したりというのも、すべては権威を「アイドル」に与えるためだったとも思えます。
しかし、映画の側から見てみると、正直困った点が出てきます。
つまりは、「TVアイドル」としての商品価値を高めることが、この「アイドル映画」の本質的目的だとすると、「映画作品」の完成度よりも「アイドル価値」を優先することになります。
そうなれば、如何に映画的な必然性があったにしても、「アイドル」としての価値が下がるような、演技演出は不可能になるでしょう。

残念ながら、この「春琴抄」も山口百恵の「アイドル価値」に従属させられ、映画的価値を十分に追求しきれなかったと個人的には感じます。
この様式美と倒錯性の、微妙なバランスの上で、芸術足りえている谷崎作品を題材にするとき、山口百恵の「清潔な色気」というアイドルキャラクターを逸脱せずして、倒錯的官能を表現し得なかったように思うのです。
「映画」としてもったいないと思いますし、女優山口百恵としてもったいないとも思います・・・・・・
しかし、そんな微妙なイメージをコントロールしながら、好きな相手と結婚するのを我慢して、個人としての幸福よりも「アイドル」として生きる覚悟を持って、「昭和のアイドル」として全国民の憧憬を勝ち得たことを考えれば・・・・・・・・
「映画的価値」こそ全てに優先すると考える私でも、「映画」よりも「山口百恵というアイドル」の方が価値が有ったと言わざるを得ません。
アイドル映画の系譜:角川映画『セーラー服と機関銃』
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有り難うございます。さっきは、書きかけの自殺サークルをあげてしまいもうしわけありませんでした。(⌒‐⌒)
コメントは保存させていただきます。
山口百恵は社会現象だったようです。
書きかけの「自殺サークル」記事がとっても気になります!
園子温の作品観たんですね。
ありがとうございます(^^)春琴抄は見なくとも良いかと(^^;
「自殺サークル」「紀子の食卓」は近々書くつもりですm(__)m
そうそう暑いので幻ですM(__)M