評価:★★★ 3.0点
この映画って、『ファンタジーおとぎ話』だと思うんです。
死刑宣告を受けた不良少女ニキータが選択の余地無く、政府の秘密工作員に仕立て上げられ、任務をこなす姿を描く女性アクション映画です。
<ニキータあらすじ>
麻薬中毒の少女ニキータ(アンヌ・パリロー)は薬屋に盗みに入り、警官を射殺し無期懲役刑を言い渡される。しかし政府の秘密警察が彼女を工作員として使おうと、秘密警察官ボブ(チェッキー・カリョ)による厳しい訓練が始まる。初めは抵抗したニキータだったが、ボブに好意を持ち始め、教育係のアマンド(ジャンヌ・モロー)のアドバイスも受け、殺し屋に成長していった。訓練後、初外出を許されたレストランのディナーはニキータの23歳の誕生日だった。誕生日の祝いと思っていたニキータに、ボブは拳銃と暗殺指令を与える。そのレストランの仕事を終え、ジョゼフィーヌというコードネームを得たニキータ。そんな中、ニキータはスーパーのレジ係マルコ(ジャン・ユーグ・アングラード)と恋に落ちるが、彼にも工作員であることは打ち明けられないまま、数々の仕事をこなしていく。ソ連大使館に潜入する指令を掃除人ヴィクトル(ジャン・レノ)と共に始めるが、失敗してしまう・・・・・・・・・・・・・
(フランス/1990年/115分/監督・脚本リュック・ベッソン/音楽エリック・セラ)
1990年リュック・ベンソン監督のこの映画は、1964年ヘップバーンの「マイ・フェア・レディー」をそのまま、アクション劇として再構築した作品だと感じます。
「マイ・フェア・レディー」も、娼婦を淑女に育てるという、英国
貴族のお遊びのようなお話でしたが、この一般ピープルを
変身させるという物語の形は、「プリティー・ウーマン」で
描かれた通り強い吸引力を持っているのではないでしょうか?
それは、変えられる女性の側も「シンデレラ的変身願望」を満たせて、変える男性側も好みの女性に仕立てるという一種の「性的支配願望」を満たせるという、両者にとって喜ばれる物語であると思います。
そんな事を踏まえて、この物語を見てみるとこの少女の初登場シーンは象徴的です。
顔にペイントを施し、男か女か解らない外見で、ドラッグで思考力を失った状態は、この主人公が人間ではない何者かとして登場していると感じます。

そんな現代文明に作り上げられた怪物としての少女を、国家権力により人間化するという話だと思うのです。
このとき、アメとしての「愛」を目の前にぶら下げられ、ムチとしての「国家権力」で管理される姿とは、近代社会が教育として繰り返してきた、国家権力に対する愛と忠誠を刷り込む行為だと感じます。
もう、現代社会で人を育てるには「権力=暴力」を持ってしかなしえないのかと、殺伐とした気持ちになります・・・ま、冗談ですが。
この映画の好きなトコロを―――――

ほんのちょっとしか出てこないのですが、教育係役の往年の大女優ジャンヌ・モローの優雅な事。
ヤッパリ大御所の貫禄てゆ〜のはスゴイ。で+☆1。
女性を主役にして、本格的なガンアクションを題材にしたのは、この映画がパイオニアだったように記憶しています。
何でも最初はエライので+☆1。
さらに、リュックベンソンにしてみればハリウッドアクションを撮るつもりだったんだけど、どっかおフランスのエスプリが出ちゃってる所に+☆1。
実際、フランス映画のファンタステイックさ、過剰さというのはなんなんでしょう。

ハリウッドスタイルを志向していればこそ、本家のハリウッド映画と比較して、計らずも、そこにはフランス人としての色が浮かび上がってくるように思います。
例えば、アクションシーンの暴力の最中に、相反する愛の表白を描いたり、ストーリーと関係の無いイマージュをデコレーションしてちりばめてみたり。どこか過剰にアートだったり。
たぶんここには、現実の持つ無味乾燥を許せない「過剰なロマンティズム」とでも言うべきモノが存在し、その性向は例えばロココの時代に見られるように、フランス文化に共通のニュアンスであるように思うのです。
そんな、「過剰なロマンティズム」を最も感じるのがラストです。
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ここから先はネタバレがあります、ご注意下さい!
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この映画のラストで、主人公ニキータが政府の工作員をやめる決心をし、逃亡します。
それを察知した政府の管理官ボブが、ニキータと一緒に暮らしていた恋人マルコの家に行き、彼と話合うシーンで終わります。
恋人マルコが破いた手紙を差し出し「(ニキーターの)あなた宛の手紙は僕が破いた。」と言います。
その手紙に、眼もくれない管理官ボブ。
そしてボブに「お互い寂しくなるな」と言われたマルコが、「…ああ。」と返事をします。
このシーンを読めば、ボブもマルコもニキータを愛し、同時に独占したい。
けれども、お互いに独占できない事が分かっているという、三角関係の恋が語られていると感じます。
しかし、ここはいかにスカスカなこの映画の脚本であっても、オカシイと思いませんか?
そもそも、政府の秘密工作員と暮らしている一般人の恋人と、秘密警察の管理者の会話や、その場面ではないでしょう。
ほんとに、嘘くさい、リアリティーのないシーンです。
しかし、その嘘こそが「過剰なロマンティズム」の精髄であるでしょう。
ここに、まるで現実味の無い「恋」を導入するだけで、この映画の嘘だらけの内容を、見事に「ロマン」に書き換える事に成功するのです。
結局、このシーン以前の過激なアクションやスタイリシュな映像の持つ意味を、ラストによって「恋」の激しさに変換しえたのです・・・・
とは言うものの、へそ曲がりの私は、こんなスカスカの脚本に降り掛けられた『過剰なロマン』に騙されてなるものかと思うのです。

それは政府の管理官ボブだけでなく、恋人マルコも政府の監視役だったというストーリーです。
二人とも、ニキータの監視役だとすれば、このラストシーンは「過剰なロマンティズム」に変わって、リアリティーと整合性を手に入れる事ができるのです。
つまり大の大人がイタイケナ少女を寄ってたかって、イタブッテイルという。
この少女をいじめて遊んでた二人が、「お互い寂しくなるな」という理由も分かるでしょう?
上の想定に立てば、この恋人も相当残酷なことしてます。
任務遂行中に話しかけたり、けっこうイジワル・・・・
ニキータも泣き虫になるわけだ・・・・・・
冒頭で述べたように、この映画の原型「マイ・フェア・レディー」は、娼婦を淑女に育てるという、英国貴族のお遊びだったように、この映画もニキータに愛をちらつかせて、男達が「おもちゃ」にするという物語かと・・・・・・
結構エグい映画に思えてきたでしょ。
私の友達は、フランス人は快楽のためなら、それぐらいすると断言してましたが・・・・・・
考えてみたら、愛って支配の別名じゃなかったっけ、マチルダ?
女性を主役にした、本格的ガンアクションのパイオニアとはいうものの、アクション量は実は抑え目です。
パイオニア作品は、そのフォロワー作品が、刺激量、過激さをましてくるので、見劣りがするように見えるが、しかしそのフォロー作品はオリジナルがなければ作られなかったことを考えれば、歴史的価値が有ると思います。
関連レビュー:映画『レオン』暴力と愛のリリシズムのあらすじとネタバレ・ラスト
関連レビュー:『グラン・ブルー』
伝説の実在モデルをもとに、リュック・ベンソンが
描く深き海の世界
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おもしろいですよね〜。この面白さは、ファンタジックな所にあるような気がして書いてみましたm(__)m
かなり子供の頃に観たんですけど???だった・・
今思えば小学生が観る映画では無かったですねえ
評価も☆3だしやはりそんなに面白く無い映画だったのですね💦
う〜ん💦難しいところで、ビジュアルとアクションはスタイリッシュでカッコいいんです。しかも、戦う女性ヒロインはこれ以前「グロリア」しか思い浮かびません。
本格女性アクション映画を世界初で描いて見せたといのは評価されるべきだと思うんですが・・・・あまりにファンタジックで、そのファンタジックを「おしゃれ」「カッコいい」と見れば、満点作品で、それに乗れないと標準作かと・・・・ハッキリしないでスミマセンm(_ _)m