評価:★★★★ 4.0点
むかし年長者に言われて忘れられない言葉がある。
それは結婚について語られたもので「最初の3年は魅かれあい、次の3年は憎みあい、そこから先はあきらめ合う」というものだ。
この言葉はペシミスティックに響くものの、恋愛の本質を言い表しているように感じられ、今も忘れられない。
<『髪結いの亭主』あらすじ>
主人公のアントワーヌは、子供の頃からずっと髪結いの亭主になりたいと思い続け、中年になった彼はその夢を実現させる。妻となったマチルドはと二人の愛の日々は静かに過ぎていくが、二人の愛は突然のマチルドの行動によって、思わぬ結末を迎える・・・・・・・
この官能的な映画を初めて見たのは、20歳そこそこだったろうか。
この映画の真の価値は、そのディティールにあると感じる。
髪の上を滑る指、ローションの匂い、髭をそる剃刀の感触など、触覚と視覚に絡みつくような官能性が、この監督パトリス・ルコントの真骨頂であるだろう。
そんな美しく匂い立つような大人の恋に、また恋というものの本質が秘めた官能にあるのだという事実を、真に感じさせてくれる映画だった。
しかし、その衝撃のラストシーンに、混乱し、真意を測りかねたのを覚えている。
次に見たのは多分20代後半だった。
その時には、自分の恋愛経験からラストシーンのヒロインの選択の必然が、理解できた。
つまり、恋に終りがあるのだと知ってしまった人間にとって、現在の恋が魅力的であればあるほどその終焉を認めたくない。
しかし恋愛経験を重ねれば重ねるほど、否が応でも人は恋に終りがあって、恋が終われば好きだった相手を嫌いになっていく現実と対峙しなければならない。
この「恋人」、何よりも誰よりも強く求め、望み、夢見た相手。
たとえ世界中を敵に回しても「一つになりたい」と希求した相手。
そんな相手との「恋の終り」が不可避である時、その終末を回避したいと願うのを、誰が止められようか。
この映画は先の言葉でいえば「最初の3年」の黄金期に対応する物語だ。
そしてまた「次の3年」に怯える、恋愛経験者の物語でもある。
誰よりも惹かれた、そんな「恋人」を嫌いになり、遂には憎みさえするという事実の、なんと残酷で悲惨な成り行きである事か。
それを思えばこのヒロインの選択に対して、どこか「No」と言い難い、自分を見出していた。
主人公の男は哀れだと思うものの、そこまで「恋い焦がれた対象」として彼女の中に求められたということに、羨望すら覚えた。
結局「恋」に殉じたいと考えれば、彼女の選択は大変理にかなったものであるだろう。
今回、何度目かの視聴をした。
結論としてこれは「恋」の物語で、「愛」の物語ではないのだと感じた。
上記の引用で言えば「そこから先はあきらめ合う」ことの、「恋」のなれの果ての、さらに先に「愛」があるのだと個人的には信じている。
というよりも、それを信じざるを得ないのは、この映画のように「恋」に全てを賭けられない身にしてみれば、そう信じて伴侶と歩み続ける以外方法がない。
そして実際「恋」の時期を過ぎて思うのは、華のようであった「恋人」は、悲しくも衰える。
その衰えた「かつての恋」を目にして憐憫を覚えるのは事実であるが、同時に慈しみをも感じる自分が、確かにある。
たぶんこの映画のヒロインも同様の心境に、「愛」を感じる、その可能性はあったのではないかと想像する。
しかし、それが彼女にとって価値があるものか否かは、生きてみなければ分からない。
さらに、この映画の匂い立つような官能は、「恋」の季節でなければ決して現れない香気であるに違いない。
こんなヒロインの華やかなエロスを持ったすがたから、彼女は「恋」なしに生きられないのではないかと考えたりもする。
そう思えば、このヒロインの官能は純粋に「恋」を生き得る、人生のある輝ける時期を鮮明に描きだした、一つの典型としての姿のように思われる。
そしてそれはまた、永遠に「恋」を求め続けるとすれば、最終的に人生の行方が不明確にならざるを得ないと、語りはしまいか。
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い〜や!エロいっす。
裸とか、ベッドシーンが無くて、ここまでエロイのが凄いんです。
チャイナドレスの後姿のような、着物の襟足のような隠したエロさが、フェチズムを刺激するのです(−○−;
フランス映画かあ〜こういうのけっこう凄そう!
フランス人て、恋愛こそ全てみたいなカンジがします。
一生恋していたいみたいな・・・・痛いといえば痛い人たちかと(^^)