2016年06月28日

映画『2001年宇宙の旅』天才キューブリックの神とは?/感想・ネタバレなしあらすじ・SF解説・意味

永遠のオデッセイ



評価:★★★★★  5.0点

[SFの夜明け]
SFという新たな小説の形式が成立したのは、20世紀の科学的知見の集積によって、世界の成立原理が「神の恩寵を示す創造物」ではなく「物理法則に則った偶然」に過ぎないと認識されるようになったためである。
その「神なき世界」を物語るために創造された文学形式の一つが「SF小説」であったのは、「神」に代わる最も確からしい因果律が「科学」で在ってみれば、当然の帰結であった。

『2001年宇宙の旅』あらすじ


猿人のいる地球上にある物体が飛来した。その物体に近づいた猿人は、近くの棒を道具として使いだした。そして、その棒が空を舞うと宇宙船に姿を変えた。2001年ケープケネディ空港から月に向かってロケットが飛び立った。旅客の中にはフロイド博士(ウィリアム・シルベスター)が、最近月面で発見された謎の物体の調査のため搭乗していた。現地ではモノリスと呼ばれる石碑のような物体から、木星に向かって放射線を発射していたが、その理由は一切わからなかった。この事件はほかの知的生命体からの、最初のコンタクトととして調査研究を進めることになった。そのため、宇宙船ディスカバリー号で木星へ向かって旅立っこととなった。しかし、プール飛行士(ゲイリー・ロックウッド)とボウマン隊長(キア・デュリア)は、コンピューターHAL(ハル)からの故障の警告に振り回される事となった。コンピューターが暴走し始めたのである・・・・・・
(原題 2001: A Space Odyssey/製作国アメリカ/製作年1968/上映時間149分/監督スタンリー・キューブリック/脚本スタンリー・キューブリック、アーサー・C・クラーク)


[未来使節]
文章表現(学問・小説)の世界では「神なき世」の言語(理論)化が進行したのに対して、映像分野でそれを表現し得た初めての作品こそ、この映画だと信じている。
スタンリーキューブリック監督がこの映画で成し遂げた奇跡は、せいぜいアポロ探査の白黒映像しかないこの制作年度において、圧倒的な未来風景を表現した事である。

実際 この映画を見てみれば、すでに現実では十数年前に過ぎ去った過去=2001年にも関わらず、確実にまだ見ぬ「未来」が定着されていると個人的には感じる。

つまりこの映画における「未来の映像」は現実世界の「科学的な想像」云々ではなく、実は人間の感性の中にある「新奇性=ユニークさ」を強く刺激する意匠=デザインが「映像として創造」されているが故に、「永劫の未来」を獲得し得たのだと思うのである。

この人間の感性に潜む未知、不可思議に対する感応力を、SFに関わる者達は「センスオブワンダー」と呼んできた。
これは、この映画で表現されているとおり「感覚」であり、その「感覚」を持った者のみが可能な表現力だといえる。

その証拠に「スターウォーズ」の世界に比べても、その未来的なガジェットが少ないにもかかわらず、この映画が「未来感」を持つと感じるのだが、それはジョージ・ルーカスの「センスオブワンダー」がキューブリックより劣っているためだと、個人的には考えている。 
少なくとも、これはスタンリーキューブリックの映像作家としての天才を示すものに違いない。

彼に「未来使節」の称号を与えたいというのは陳腐にすぎるであろうか?
 
蛇足ながら、未来風景のデザイン協力をもう一人の「未来使節」、手塚治虫に求めたのは有名な事実であるが、もし手塚がその多忙を理由に断らなかったとしたら、手塚の持つ流線的なフォルムの未来図は、また違う一種エロチックなメッセージをこの映画に付加したと創造するのである・・・・・


[そして無限の科学の彼方へ] 
このように20世紀に始まった「神なき世界」の「知=科学」の冒険は、文学といわず哲学といわず「神」に代わる「根本原理」は理論的に解析・証明が可能だと信じる「科学」を中心に進んできた。
そしてその「科学」の探求とは、不可思議を求め、それを解析したいという人々の心の中に在る「未来観=センスオブワンダー」に導かれ表現・追求された。
 
しかし「センスオブワンダー」を持つ人々は同時に疑い、恐れ、しかし確信している。
科学によって証明し続けた先にまだ残る、証明し得ない何物かが「存在」することを・・・・・・永遠、存在、核心、精神、道、魂、超越者、全き物・・・・・すでに名づける事も不可能な「それ」を・・・
 
実際、科学的知見の先に在る「それ」を予見した人々こそ、そのまま「最先端の科学者」であった。
「ニーチェ」は「神が死んだ」といった先から「人が神になる道」を模索し始め、「ユング」は人類共通の超越世界を表現しだし、「アインシュタイン」は物理法則の先に在る大いなる力を証明しようとして力尽きた・・・・・


この映画の原案者アーサーCクラークもまた、その作品「幼年期の終わり」で端的に示されるように、「科学」を超越した「それ」を追い求めてきた作家である。
この映画の監督キューブリックも原案者との対話の中で、その意味するところは十分理解し得たであろうし、言葉に置き換えて表現することも可能であったろう。
 
しかし、なるほどこの映画でもそのテーマを音楽「ツァラトゥストラはかく語りき」によって表現はするものの、この「ニーチェ」の「超人思想」を「交響曲」とした音楽を流すだけで、「それ」を伝えたと考えるはずもない。

キューブリックは明らかに言葉で語る事を放棄したのだ。

この映画で「それ」を、観客にとって得心する形=「説明」する事が間違いだと信じた。
この判断は「言葉」で世界を寸断し、削ぎ落としていった先に在る、まだ知り得ない「それ」を、さらに言葉で追い求める事に対する絶望によりはしまいか。

「世界」を「人智」で全て汲みだす事が不可能で、「人間存在」から見える「世界」を遥かに超えた「世界総体」が存在することへの確信を持ったキューブリックは、映像作家として最も正しい方法で世に提示した。


すなわち、「世界」をただ見る者の前に放り投げる事。
純粋に「世界」を映像として存在せしめる事。
 
それは言葉という比較的正確なコードを使用しないが故に、見る者の恣意しだいで如何様にも変化・変容してしまい収斂しえない危険を持つものかもしれない。
しかし本来「世界」とは、人の勝手な解釈を遥かに超越して存在するはずではないか。
その人の思考や言葉への置換が出来ない、人知を超えた、世界の全てを持つ者こそ「神」ではなかったか。

キューブリックはそんな「世界=神」に対して敬虔であろうとしたがゆえに、言葉をそぎ落とし、見る者の眼前に、ただ映像だけを放り投げた。
その人知を超えた存在を言葉ではなく、映像で表現し、観客があるがままに受容することこそ、最も正しい「世界」の表現だとキューブリックは考えたに違いない。

その大いなる試みこそ、この作品のラスト数十分の映像に他ならない。
それは「神」に対する敬虔な「表現=祈り」であると同時に、キューブリックが「映像世界」の持つ「神聖な力」を信じている事の証左であるように思う。

つまりはキューブリックにとって、神とは「映像」に他ならないのだ。


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posted by ヒラヒ・S at 16:09| Comment(4) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは〜・・・むずかしいよぉ(`д´)泣きたいよぉ(´;ω;`)ウゥゥ
頭が悪いよぉ💦神=映像ということでよろしく!
Posted by ともちん at 2016年06月28日 20:46
>ともちんさん

ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!
えらそ〜なこと言って見たかったんです。
ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!
Posted by ヒラヒ・S at 2016年06月28日 20:55
キューブリック作品かあ〜『アイズ ワイド シャット』しか観た事なかったりするのですよね〜💦
記事読んだところ哲学的ですなんすかね?
難しそう・・
Posted by いごっそ612 at 2016年06月29日 15:04
いごっそ612さん

確かに、ストーリーや意味を追っかけると、訳わかんないです😅
でも、そんな事どーでも良くなる位、映像がスゴいんデス(*≧∀≦*)
意味なんてどーでもいいと思うんです。美しいんだからと思う今日この頃ですm(__)mところで、アドヴァイスを頂いたので、タイトルを長くしました。
これからも、いろいろ教えて下さい。しっかし、検索で入ってくる人ほぼゼロですもんね😢
Posted by ヒラヒ・S at 2016年06月29日 18:23
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