映画『ニューシネマパラダイス』(感想・解説 編)
原題 Nuovo Cinema Paradiso 英語題 Cinema Paradiso 製作国 イタリア、フランス 製作年 1989 上映時間 123分 監督 ジュゼッペ・トルナトーレ 脚本 ジュゼッペ・トルナトーレ 音楽 エンニオ・モリコーネ |
評価:★★★★★ 5.0点
この映画はイタリアの名匠ジュゼッペ・トルナトーレの、間違いなく映画史に残る名作だと思う。
イタリアのシチリアを舞台にした、ノスタルジックで甘美な物語だ。
幼いトト少年と映写技師アルフレードが心を通わせていく様子を、美しく懐かしい音楽とともに描き出し、特に映画ファンであれば涙を禁じえない作品だと思う。



映画『ニューシネマパラダイス』予告 |
サルヴァトーレ・ディ・ヴィータ(少年期サルヴァトーレ・カシオ/青年期マルコ・レオナルド/中年期ジャック・ペラン/アルフレード(フィリップ・ノワレ)/エレナ(若年期アニェーゼ・ナーノ/中年期ブリジット・フォッセー:ディレクターズカット版)/マリア(中年期アントネラ・アッティーリ/壮年期プペラ・マッジオ/神父(レオポルド・トリエステ)/スパッカフィーコ:パラダイス座支配人(エンツォ・カナヴェイル)/イグナチオ:劇場の案内人(レオ・グロッタ)/アンナおばさん(イサ・ダニエリ)/広場の男(ニコラ・ディ・ピント)
映画『ニュー・シネマ・パラダイス』出演者

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映画『ニュー・シネマ・パラダイス』解説 |
しかし、これまでに見てきたイタリア映画からすると、若干の違和感を感じたのも事実だ。
イタリア人というのは家族を大事にし、さらには「マンマ・ミ〜ア」という母系中心の家族体系だとの印象を持ってきた。

しかしこの映画の場合、母親は主人公の「トト少年」を叱り、彼の望む場所、村の映画館の映写技師「アルフレード」から、強引と言ってもいい力で引き剝がそうとする。
また同時に、「母親こそが全て」のイタリア人少年であるはずなのに、「トト」は母から必死に逃れて「アルフレード」と時を過ごす方を選ぶ。
そして、この「トト」には、第二次世界大戦で戦死してしまって父親がいない。
その欠落を埋めるように「アルフレード」が、幼少期の「トト」を人間的に育てると映画は語っているように見える。
しかし、その文脈でいくと、母は親代わりのアルフレードを認めないことで、家族の絆を断ち切り、同時に「トト」は母よりも父を選ぶという、反イタリア的な家族の物語になってしまう。
しかし、それなら何故これほどイタリア的なノスタルジックな主題歌を準備したのだろうか。
主題曲『ニュー・シネマ・パラダイス・テーマ』
いろいろと考えるうちに、彼「アルフレード」は真に父としての役割を担って、この映画に登場したのだろうかという疑問を持つようになった。

本来「トト」の父であるならば、トトの母から頑なに拒否されていることに、やはり違和感を覚える。また「トト」が「アルフレード」に対して異常に執着し、本来の親子にあるべき精神的な相克が見えないところも、本来の意味での「父親」という役割をこの映画の中で求められているとは考えづらい。
結局「アルフレード」は、映画内で、別の関係性を持って物語に登場しているのだと思われる。その役割がはっきりするのは、物語の中盤である。
彼は映画フィルムを焼失する場で、失明する。
フィルムが焼けると同時に映写技師としての役割を喪失する、この共時性は、彼が映画の擬人化された象徴である事を意味するとしか思えない。
さらに、この「アルフレード」が「映写技師」を失明により続けられなくなり、その後を「トト」が引継ぐとき、それは「アルフレード」に変わって「トト」が「映画」となって生きるということを意味しただろう。
そう考えた時、「トト」は映画という幻影に育てられた存在であり、そして自ら「映画」を生きる者となったと考えるべきだろう。
そう考えてみれば、作中で映画が満ち溢れている事の意味に気づくはずだ。
関連レビュー:作品中の映画タイトルの紹介 映画『ニューシネマパラダイス』 ジュゼッペ・トルナトーレ監督の語る映画へのラブレター 映画黄金期の映画作品がちりばめられた作品 |

それゆえ、母が厳しい叱責と共に、幼少期に息子を「映画=アルフレード」から引きはがそうとする理由も了解されるのである。
母親には分かっていたのだ、現実を生きない者が不幸になる事を・・・・
あまりに美しく、完璧な世界を目にしたとき、それが「幻影=映画」だと分かっていても・・・・
人は愛し執着するものではなかろうか。
そしてまた、美しい幻影に生きてしまえば・・・・
現実世界が醜く、猥雑で、嫌悪すべき場所に思えてきはしまいか。
なるほど現実は生きられねばなるまい・・・・・・しかし生きるのが困難なのが現実でもある。
トト少年は父の不在という辛い現実を、「映画」を「父」として生き抜いたのだ。
もし現実に適合できなかったならば、それは「親=映画」の責任に違いない。

そう思えば、青年、成人となった「トト少年」の現実世界の不幸は、「幻影」に依存してきた者の当然の帰結であったかもしれない。
そして現実世界に絶望した「成人トト」は、「美しき幻影=映画」の中で人生を生きざるを得ない。
結果的に「トト」は「映画監督」として成功した。
しかし、それは映画文脈の上から追って行けば「現実世界不適合」を意味すると解釈すべきだと思う。
結局、この映画で語られる「幻想世界と現実世界の対立」は、現実を生きなければならない人間にとって、常に幻想に生きる者の「現実世界での敗北」で終わるという自明の結論に至らざるを得ない。
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映画『ニュー・シネマ・パラダイス』感想ラスト・シーン意味 |
しかし ―
監督ジュゼッペ・トルナトーレは、自らも幻影に育てられた一人として、この映画の「最後=ラストシーン」で語る。
無限の慈しみを持って、郷愁とともに、「トト少年」が如何に幸せで、豊穣で、歓喜に満ちていたかを。
目くるめく幻影イマージュの内にある事がどれほど幸福であったかを。
そして、映画を愛してきた私は思う ―
それらの美しきイマージュ達こそ、自分自身に他ならないことを。
どんなに現実が苦しいものになっても、自らを創っているイマージュに殉ずる運命にあることを。
その「運命」を引き受てでも、美しき幻影たちとともに生き続ける価値が在ると、この映画のラスト「華麗な愛のシーン」が教えてくれる。
このラストを見れば―
映画という幻影に、溢れるほどの愛情を注ぎこんだ先人の映像作家達を思えば―
やはりこう言わざるを得ないだろう・・・・・
シネマ・パラディソ。
映画こそ天国。
関連レビュー:ラストシーンの映画タイトルの紹介 映画『ニューシネマパラダイス』 ジュゼッペ・トルナトーレ監督の語る至高のラスト 映画黄金期へのラブレター |
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これは映画ブログをやるなら一度は観ておかねば!
5.0も納得の評価です!
名作ですよね〜(^^)ベタ過ぎて、レビュー書くのも気恥ずかしい位ですが・・・・。でも、あのラスト、あのラストの感動をお伝えしたい。映画好きにはたまらないですね〜
ありがとうございます。見てないんですね〜うらやまし〜。
このカンド〜を初体験できる。うらやまし〜ですm(__)m