2016年06月16日

映画『マディソン郡の橋』恋に不倫という罪を科す/感想・あらすじ・解説・不倫の恋

主婦に一輪の花を



評価:★★★★   4.0点

この映画を見て、祖母の言った突然の一言を思い出した。

それは「恋をしなかった」というものだ。

実際に祖母は、祖父とは結婚前に一度しか会っていないらしい。
祖母の生家を祖父が訪れた際、お茶を出しただけで、顔もちゃんと見ていないのだとよく笑いながら話していた。
祖母は結婚とはそんなもので、親の家から姑の家に住み変わり、日々の生活を続ける場所だと理解していたという。
しかし祖母は言う。
幸いなことに良い夫に恵まれ、子供達は成長し、可愛い孫もいて、本当に恵まれた人生だと思っていると。
祖父は優しく、お互い掛替えの無い伴侶だったと信じているとも。
そして祖母は自分の人生は幸せだったと思うとも語った。
穏やかで満ち足りた、その祖母の顔を思い出すとき、その人生を総括した感慨に嘘は無いと思う。

それでも尚、「恋をしなかった」と、90歳の祖母に言わせた衝動とは何なのだろうか・・・・・

『マディソン郡の橋』あらすじ

1989年の冬アイオワ州マディソン郡。フランチェスカ・ジョンソン(メリル・ストリープ)の葬儀から始まる。葬儀が終わり、彼女の子供たち、長男のマイケル(ヴィクター・スレザック)と妹のキャロリン(アニー・コーリー)は、母の遺言を読むと、そこには1965年の4日間の恋が記されていた。そして、最後に恋人との思い出の橋、また彼の遺灰が撒かれている「マディソン郡の橋」に、自分の遺灰を撒いて欲しいとの願いが、書かれていた・・・・・・・
65年秋フランチェスカはプロ・カメラマンのロバート・キンケイド(クリント・イーストウッド)に出会った。ロバートは屋根付きのローズマン橋の写真を撮りに来ていたが、道に迷いフランチェスカの家を訪れたのだ。たまたま、夫のリチャード(ジム・ヘイニー)と2人の子供が、農産物品評会で4日間留守にしている時だった。結婚15年目のフランチェスカは、日常に飽き、日々退屈を感じていたので、ロバートに新鮮な刺激を感じ夕食に誘う。そして、その翌日も夕食を共にした二人は、次第に打ち解け合い共にダンスを踊った。そして、2人は一夜を共にした。しかし、家族が戻る日が迫り、2人の時間が少なくなるにつれ、フランチェスカはロバートへの恋心に苦悩し始める・・・・・・・・・・

『マディソン郡の橋』予告


(原題The Bridges of Madison County/製作国アメリカ/製作年1995/上映時間:2時間15分/監督クリント・イーストウッド/脚本リチャード・ラグラヴェネーズ/原作ロバート・ジェームズ・ウォラー『マディソン郡の橋』)

『マディソン郡の橋』出演者

ロバート・キンケイド(クリント・イーストウッド)/フランチェスカ・ジョンソン(メリル・ストリープ)/キャロライン・ジョンソン(アニー・コーリー:幼少期サラ・キャスリン・シュミット)/マイケル・ジョンソン(ヴィクター・スレザック:幼少期クリストファー・クルーン)/リチャード・ジョンソン(ジム・ヘイニー)/ベティ(フィリス・リオンズ)/マッジ(デブラ・モンク)/ピーターソン弁護士(リチャード・レイジ)/ルーシー・レッドフィールド(ミシェル・ベネス)


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『マディソン郡の橋』感想・解説



これは、一瞬にして、永遠の、不倫の恋の物語だ。

わずか4日だけの、消えた輝きの記録だ。

この田舎町の、平凡な、くすんだ、主婦を、メリルストリープが好演している。
映画が始まったばかりの煤けたような顔に、映画が進行するにつれ生気が吹き込まれ、恋人ロバートとの別離前ともなれば完全に恋する女の輝きを見せる。
また、クリント・イーストウッドも、クールな佇まいから、情熱を吐露するラストへの移行がナチュラルで、この恋にリアリティを与えている。
そんな名優二人の演技もあって、恋の始まりから、徐々に惹かれあって、掛け替えのない二人になりながら、お互いの恋を収める姿が切なく描かれ感動的である。

だが冷静に見返してみると、この映画は単純に純愛とは言えないのではないかと、そう思うようになった。

この映画でメリルストリープ演じるヒロインは、私の祖母とは違い、第二次世界大戦でイタリアに進駐してきた米兵と恋に落ち、結婚しアメリカに居を移すという過去を持つ。
つまり、この映画で描かれた20年前にも、一度は生まれ故郷を捨てる程の大恋愛を経験しているということになる。
しかし、そんな「人生を賭けた恋」の行く末は、亭主は善良だが平凡で、田舎町の何の刺激もない所で暮らし、退屈で面白くも無いと、諦めと詠嘆に満ちた言葉を言わせる人生をもたらした。

そこに現れた見知らぬ男は、世界中を飛び回るカメラマンであり、彼女が欲する刺激的な人生を象徴するような人物だ。
そもそも、アメリカ兵について海を越えるあたりは、彼女が生来の冒険家であったことを示しているかもしれない。
そう思えば、彼女の人生は、そもそも期待した姿から随分と逸脱した姿と、なり果てている。
そんな不充足を感じているところに、刺激物を与えれば、恋に燃え上がるのも、致し方ないだろう。

しかしこう整理してみれば、人間というのはそもそも不充足な、現状に満足できない生き物なのだということだ。
このヒロインにしても、私の祖母にしても、世間一般から見て「幸福」であると思われていたはずだ。
しかし、「幸福」をよくよく注視してみれば、そこには、穏やかで、平和で、何不自由ないというような、つまりは波乱の無い穏やかな日々が、その基盤としてあるだろう。
もし逆の状況を想像してみれば、それは、動乱、不穏、生命の危険、家族の確執というような、混乱に満ちた状態のはずであり、それは不幸という言葉で集約されるだろう。

すなわち、幸福とは平凡な日常の積み重ねであり、その平凡を耐え続けることが、すなわち幸福のもたらす果実なのだ。
そして同時に、その平凡を喜びつつも、それが際限なく積み重なったときに、不満を持ち苦痛を感じるのも人間なのだ。
それは同時に刺激的な日々を追い求めて、世界中を回ったクリント・イーストウッド演ずるカメラマンが、平凡な日常をヒロインの中に見出したことと通じる。

やはり人は、どれほど幸福であっても、どれほど望む人生を送ったとしても、必ず不満を持ち現状から逸脱しようとするものなのだろう。
しかし、同時に現状の幸福からの逸脱とは、不幸になることを意味する。
そんな、矛盾した刺激と幸福の相関関係を解決するために、人はある発明をした。

それは、平穏な日常におけるコントロールされた刺激である。
つまりは、ゲームやスポーツ、本、芸術など、日常から飛び立つ別の世界に遊ぶことだ。
この二人の間に起こった「恋」とは、そんな管理された刺激ではなかったか。

少なくとも、ヒロインにとってこの映画で描かれた「恋」とは、決して自らの平穏な幸福を放擲するものではなかったろう。

それは、別離のシーンで明確である。
別れの朝、恋人に悪罵を投げつけ、その痴話げんかの果てに、男に「これは真実の恋」だと言わせたシーンは、自分の勝ち得た「恋」の輝きを増すための周到な方途ではなかったか。
また最終的に恋に結末を着けるに当たって、アメリカの田舎町における、閉鎖的な人間関係に残される「不倫妻」という汚名と、その汚名を着て生きていかなければならない家族の事を引き合いに出し、どんなに好きでも家族を捨てられないという理由付ける所は、結局、男から「誠」を引き出しながら、自らは家族を立てにリスクを犯さないと見られても仕方有るまい。

同時に男からすれば、たとえこれが遊びであったとしても「これは真実の恋」だなどと口にした時点で、それは「真実の恋」として生涯胸に刻まれる。
男というのは馬鹿だから、逃げる獲物と、自分の言葉に拘泥し、さほど欲しくも無い対象をも宝物にしてしまう。
そんな心理を十分理解した上での駆け引きは、やはりこれはヒロインの方が一枚上手だったろう。
この映画を通じてこのヒロインが、周到に、自らのリスクを犯さずに、甘美な「恋」の果実を手にするために、慎重に歩を進めているように私は感じる。

しかしこの解釈が正しかったとすれば、ヒロインは計算づくでこの「不倫の恋」に入っていったということになるだろうが、責める気には私はなぜかならない。


それは、一つにはメりルストリープの演技もあって、このヒロインがこの恋に真摯に対峙しており、計算が見えたとしても、それは女性の持って生まれた防衛本能が無意識のうちに働いたと見え、そこに悪意を感じないためでもある。
しかし私にとって、それ以上に彼女に同情的な心理を形成するのに力があったのは、このヒロインと、私の祖母に共通するものを見出したからだ。

それは、人生において実直に義務を果たし続けるという、偉大な行為を完遂し得たという事実だ。

この、主婦という、既に生物学的な定義としてではなく、人間社会の役割として認知される存在となって後、女達は退屈で変化の無い消耗戦を日々闘い続け無ければならず、その存在はついに家具のように家と同化してしまう。
つまり、主婦という存在が意味するのは、既に個人としての人生が終焉を向かえ、家族の公共物として機能すべき「モノ」と化す日常を生きることである。
そんな、かつての女達の日常の集積を思うとき、「恋」という冠をその人生に戴せてみたいと考えることの、何が罪であろうか。

例えば、この映画のように全ての義務を引き受けた上で、「恋」という宝石を胸に抱いて生きるのは、許されないことであろうか。

この映画を見て、夫の存在を哀れむ者もいるかもしれないが、妻・母という義務を果たしたとすれば、感謝こそすれ非難すべきでは無いだろう。
逆に、夫婦間に恋愛感情を持続させ得ないというのは相互の努力の問題もあろうが、おおむね結婚して10年もすれば「恋愛」感情が希釈されていくのは実感として同意されるはずだ。
更にいえば、恋愛に寄らない関係に成り果てても義務として家庭を生きるのを「尊い」と、夫婦であれば了解すべきだろう。

そういう前提に立てば、もし妻に「恋」という喜びが訪れたならば、祝ってやるぐらいの度量を示すのが良き家庭人ではないか?

それが、夫と子供の為に人生を捧げ尽くした妻に対する「思いやり」だろう・・・・・・・・例えば、祖母の世代のように、己を殺し実直に義務を果たし続けた者に、ささやかでも人生を飾る輝きの一瞬をもたらしたいと願うのは、罪であろうか。

私の祖母が「恋をしなかった」と言ってから、亡くなるまでには5年の歳月を要した。
その5年は幸いにして、穏やかにすごしたのだが、その平穏が祖母の人生に更なる平板な日常を重ねただけでなければ良いと思う・・・・・・

その5年の間に、祖母が「恋」を経験できていたならば、祖母の人生がより輝きをましただろうと考えるのは、倫理にもとるであろうか。


posted by ヒラヒ at 20:59| Comment(4) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おこんばんは〜ええ話や(*^^*)これは観ましたが観るのが早すぎた。うちのばあちゃんは元水商売(バーだそうです)で結婚後は専業主婦です。じいちゃんはいわゆる昔のエリートで大恋愛ですわ♪不倫とは無縁な退屈な人生だったんでしょうかね・・・
Posted by ともちん at 2016年06月16日 20:41
>ともちんさん

おばあちゃんとおじいちゃんの恋愛の方がいい話ですって。
そんな大恋愛なら、一生好きでいたと思いますよ(^^)
長文に付き合っていただいて、ありがとうございますm(__)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年06月16日 20:52
おおっと懐かしい作品出ましたね(*‘∀‘)
しかし、熱い!熱い記事っすね~!
当時観たとき、ただの不倫映画っと思って観てしまった自分が恥ずかしい!凄いと思って毎度観さしてもらっています。
Posted by いごっそ612 at 2016年06月17日 06:54
>いごっそ612さん
ど〜も。ありがとうございます(^^)古い映画を長々と・・・しかし、自分のペースで続けられる形でやってこうかと・・・今後ともよろしくm(__)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年06月17日 08:49
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