評価:★★★★ 4.0点
あたり前の話だが、人は日常を生きるのだ。
そして日常とは、ドラマではない。
つまりは、全てのドラマは過剰なのだ。
この映画はそんな過剰なドラマを排した、ある家族の法事の一日を、日常のままに描いた物語だ。
この家族は医師をしていた父親とその妻、すでに嫁いだ娘とその夫と二人の子供、独立した次男とその子持ちの妻、更に数年前に事故死した長男という家族構成であり、法事というのは数年前に事故死した長男の供養である。
この家族構成を見た時、複雑で、様々な関係性を内包していることが分かるが、その関係性に潜む対立はお互いの表面上の言葉や、慎重な距離感によって、平穏な日常が保たれる。
じっさい映画を見ると分かるのだが、この家族の構成員には個々の事情も感情的なわだかまりもある。
しかし、その本来映画として描かれたときに「ドラマ」とされる部分、例えば、次男の連れ子を持つ結婚相手が気に入らないとか、長女が親と二世帯住宅にして住みたいだとか、父親と次男に確執があるとか、長男の不幸を認められない両親だとか、次男と連れ子との関係というような問題は、ときおり日常の裂け目のように表れはするが、その裂け目はたちまち修復され糊塗される。
観客にしてみれば、最初は「映画としての劇」を持たないこの映画に、戸惑い意図を測りかねるかも知れない。
しかしこの映画の「日常生活」と、通常の映画が持つ「劇」との、いずれにリアリティーがあるかと問うたとき、明らかにこの映画で描かれた日常こそリアリティを持つものだろう。
私はこの映画にある、日常の中に対立を隠し「和」を保つ姿こそ、古来より日本人が持って来た他者との関係を描いたものだと思う。
結局日常の中に全てを埋め込み、平穏を演出することこそ、強い家族的束縛の中に生きる日本人が生きていく上で必須の能力であっただろう。
そしてその家族の強い関係性とは、稲作農業の共同作業を効率よく行うために、作り上げてきた日本民族の特性であったように思える。
われわれ日本人は、この映画にある「日常」を延々と綿々と、日々歩くように積み重ねてきた。
そしてこれからも、歩き続けるだろう。
歩いても歩いても、世代を重ね続けても、決して変わらない日本人の「日常」こそ、本来表現されるべき日本のリアリズムだと語られているのではないだろうか。
それゆえ、この映画を見たものは反問しなければならない。
われわれが眼にする、通常の映画が持つ「過剰なドラマ性」とは、いったい何なのかと。
考えて見れば、今、TVや映画で語られている「過剰なドラマ性」とは、明治以後にヨーロッパから輸入された文化ではなかったか。
それは結局、ヨーロッパ・キリスト教文明の、唯一にして絶対の「神」の存在を前提とした物語であったと見るべきだろう。
その、「神」に対する善と悪、「神」に対する真と偽、「神」に対する美と醜という形で、厳しい二者択一を求められる文化圏の人間にとって、最も相応しい「ドラマ」だったろう。
それゆえ、「過剰なドラマ性」 とここまで書いては来たが、実際は”日本人にとっては「過剰なドラマ性」”として感じられるとしても、西洋キリスト教文明の下では「適正なドラマ」だということだ。
しかしだからこそ、翻って日本人にとっての「ドラマ」を考えたとき、明治期に輸入された「西洋ドラマ」の形が本当に正しいのかと考えざるを得ない。
本来は「日本と日本人」を描くのに、この是枝監督の「日常に埋没したドラマ」を描く方法こそ相応しいと、個人的には感じるのである。
是枝 裕和 監督作品レビュー
そして父になる
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私もこの映画見ながら、ともちんさんが見たら、まんまでビックリするんじゃないかと想像していました(o^・^o)誰が見ても心当たりがあるように、うまく作ってますよね(^.^)ノ