2020年04月12日

マンガ『鉄腕アトム』解説・考察/アトムと太平洋戦争

鉄腕アトムが戦うということ



評価:★★★★★  5.0点

手塚治虫という巨人を思うときに、この鉄腕アトムのイマージュが、一種の郷愁とともに蘇る。
この天才は数々の革新をマンガ表現にもたらし、結果的には彼一人がこの世に存在しなければ、今日の日本マンガの栄光はあり得なかった。

その数ある革新の中で、特に注目したいのは、その悲劇性である。

手塚以前のマンガは、基本的に悲劇を内包しなかった。
なぜなら、ドラマツルギーを保持した表現物として小説などの文芸が厳然とあり、そのドラマの隙間に笑いをもたらすのがマンガの役割だったからである。

であれば、手塚はなぜ悲劇を描くという、マンガ史上の跳躍を成し得たか?

その答は彼が大学生でマンガ家を目指した当時、日本が戦争の最中にあったせいではないかと、個人的には勝手に想像をしてきた。
この文章はその想像の検証として書いている。

戦時中、手塚はマンガを描いていたという理由でこっぴどい懲罰、体罰を受けるという経験をしている。また、統制経済の元で紙ですら政府が管理する状況下で、マンガに対して紙資源の割り当てを受けるというのは、ほぼ絶望的だった。

つまり、手塚が大学生の戦時下、医者かマンガ家の選択で手塚はマンガ家の道を選んだにもかかわらず、その発表の機会すら有り得ないという状況だったのである。

しかし、この天才は自らの選択した人生に絶望はしなかったのであろう。
見事に、戦時下の日本においてもマンガを、認知許容させる術を見出したのである。

それこそが、マンガによって悲劇を描くという、常識破りの一手であったと想像するのだ。

悲劇を描ければ、戦争における犠牲的な行為や、憎むべき敵国に対する復讐も描ける。
つまりは、戦意高揚の為のマンガを描くことが可能になるのだ。(実際手塚はミッキーマウスを悪役にしたマンガを描いていた)

幸い戦争は終り、手塚は表現に対する規制から自由になったが、すでに悲劇物語を描くマンガ的技術、すなわち映画的モンタージュ、恐怖や悲哀などの複雑な感情描写の方法論の確立、物語性を的確に伝えるコマワリ等の整理、は彼の中で確立されていたのであろう。

その結実が、この「鉄腕アトム」である。

そもそも、鉄腕アトムを見るとき、一度死んだ少年が機械として再生し、戦い続けるという展開の中に軍国日本の少年兵のオマージュを見出しはしまいか・・・・・・この物語は、戦時下の少年が鋼の肉体を持って、敵国と戦い続けるという哀しい定めを描いたものと解する時、このマンガは手塚の中で、戦時下に発表出来るマンガの模索という、上記の過程を通って生成されはしなかったか。

たとえばアトムのボディに日の丸を描いたとすれば、その戦う姿はそのまま戦意高揚マンガとして十分機能するに違いない。

この想定の上に立って、このマンガのラストを見るとき、その姿は特攻に赴く少年飛行兵にオバーラップして映るのである。

しかし、この悲惨な戦いが手塚の、丸い、流麗な、記号的絵柄によって表現されるとき、痛みや苦悩が薄らいでしまう。
それゆえ見る者に、忌避感無く受け入れられたのであろう。逆に、劇画調でこの物語を描けば、戦争の記憶が残る時期に受け入れられなかったのではないか。

昔も今も日本の「カワイイ(手塚の個性でもある)」は人々に対する強い吸引力を持っている・・・・・・

仮に上記「手塚マンガ」の成立に対する戦争の影響の言及に、多少なりとも真実が潜んでいるとすれば、日本のマンガは戦争の惨禍より生まれたという事も可能であろう。

しかし、手塚の絵柄と未来的イメージによって、その物語の本質が覆い隠され、同時にその「マンガによる悲劇」が劇的な効果を子供たちに及ぼし、手塚のエピゴーネンが戦後マンガを推進していった。

それゆえ、日本マンガの遺伝子として「戦闘」と「カワイイ」という相反する遺伝子がもたらされたように思うのである。

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posted by ヒラヒ at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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