2018年06月27日

映画『永遠の僕たち』生きるとは死ぬこと/あらすじ・感想・解説・意味

うろうろする「生命」

原題 Restless
製作国 アメリカ 
製作年2012
監督 ガス・ヴァン・サント
脚本ジェイソン・リュウ

評価:★★★★    4.0点



この映画の、痛々しくも美しい余韻をどう表現すべきだろうか・・・・・・
ここには「生と死」を巡る、儚くも不可避な、哲学的な問いが秘められていると思える。
死という永遠の未知を、人は理解できないがゆえに、原題が語るように「Restless=安んじ得ない」のかも知れない。
そんな根源的な問題をはらみつつ、その映像の美しさと若者たちの無垢な輝きによって、鮮烈な印象を一段深くしているように感じた。

film1-Blu-sita.jpg

映画『永遠の僕たち』ストーリー


イーノック(ヘンリー・ホッパー)は、自動車事故で両親を亡くして以来、見知らぬ人の葬儀に、遺族のふりをして勝手に参列してきた。そんな葬儀の場で出会った少女アナベル(ミア・ワシコウスカ)と知り合い、つきあい始める。イーノックは、かつての事故をきっかけに、ヒロシ(加瀬亮)という特攻隊員の幽霊が見え、日常的に会話を交わし遊ぶ仲だった。イーノックは、今は死んだ母の妹の家に世話になっているが、何かと衝突していた。一方イーノックとアナベルは恋人同士となり、彼の両親が眠る墓地に案内したりする。アナベルはイーノックのことを、姉のエリザベス(シュイラー・フィスク)に嬉しそうに語った。
しかしアナベルは、癌で余命を宣告される身だった・・・・・・・・・・・

映画『永遠の僕たち』予告

映画『永遠の僕たち』出演者

イーノック・ブレイ(ヘンリー・ホッパー)/アナベル・コットン(ミア・ワシコウスカ)/ヒロシ・タカハシ(加瀬亮)/エリザベス・コットン(シュイラー・フィスク)/メイベル(ジェーン・アダムス)/レイチェル・コットン(ルシア・ストラス)/ドクター・リー(チン・ハン)

Film2-GrenBar.png

スポンサーリンク


Film2-GrenBar.png

映画『永遠の僕たち』感想



むかし、哲学の授業で聞いた話が忘れられない。
rest_pos1.jpg
それは、「明日死ぬと分かっているとき、昨日と同じ生活を生きられるか」というものだった。

つまりは、明日死ぬと分かっていて、今日のケンカはしただろうか、見ても見なくてもいいTVを見ただろうか、やらねばならない事を後回しにしただろうか、自ら望まない事をやっただろうかと、問い掛けよという。
さらには、明日死ぬと分かっていて成されるべき行動・思考こそ、その個人にとって真に必要な「実存的な生」だというものだった。

正直言ってよく分からない。
しかし、確かに明日死ぬ事が確定しているとしたら、好きな人と今日ケンカしないだろうという確信はある。
つまりは、死が直近で不可避であると想定して、その「死の瞬間に後悔をしないよう、日々を誠実に生きよ」という意味だと勝手に解釈している。

この映画はそういう映画なのだと思う・・・・・・・

この映画の主人公をヘンリー・ホッパー(デニス・ホッパーの息子)は、脆さや、焦燥に満ちた不安定さを、体の線で繊細に表現する。
彼は母を事故で亡くし、その死を許容しかねて、その意味を求めて葬儀に参列している。
restless_1.png

また、その少年と葬儀の席で会う同年代の少女もまた、小児癌の病を得て余命を宣告されている身で、「死」に対して向き合わざるを得ない。
彼女はダーウィンの進化論をこよなく愛する。
それは、進化とは「死」によって次世代の「命の可能性」を拡大させるものだからだったろう。
つまりはこの少女の探していたモノとは、「死」によって「生命=意味」が生じ得るかという設問に対する答だったろう。

そんな薄いガラスのような少女を演じるミア・ワシコウスカは、透明で軽やかな演技で、冬の日差しのように儚さを表現して魅力的だと感じた。


この「死」の意味を真剣に見つめながら「生きる」ことを余儀なくされた、二人が出会い、付き合いだしたのは必然だった。
rest_in.gif
それは、死体置き場に行ってみたり、墓場で有ってみたりと、第三者から見れば死を玩ぶかのように見えるかもしれない。

しかし、この二人は真実「死」の意味を、自らに理解できる形で求めていた。

rest_kase.jpg
この二人の設問をより鮮明に象徴するのが、少年が一時的な死を経験した後に見えるようになった、加瀬亮演じる特攻隊兵士の幽霊だ。

この特攻隊兵士が意味したものこそ、特攻という「確定した死」に向かって突き進んだ「生命」を代表する者であったろう。
この霊が意味するものこそ、少女の問いである「死」によって「生命」が生じ得るかの答えだったはずだ。

特攻隊員とは、「不可避の死」という運命を受け入れざるを得なかった者であった。
それゆえ特攻隊員とは、「不可避の死」受け入れることで、どう完璧な死を迎えるかという「潔い死=死の美学」を考えた者でもある。
そして個人的に想像するに、特攻隊員とは「美しい死=死の完遂」を果たすためには、残された生に多くの意義を生じさせる「生の完遂」しか方法はないという答えを得た者だったのだと思える。

Rest-mafula.jpg
つまるところ、この特攻隊員の霊は、自らの「生に意義」を生じせしめた「死」を語り、同時にその「死」が生み出した「生の意義」を語っていると思う。

その「生と死」の相関関係を知ったとき、この少女も残りの命で「生に意義」を付与し「美しい死」を得たのだと思う。
つまりは少女は残りの人生のありったけを込めて、少年を愛し、少年の胸の内に、その死後も彼に消えない想いを残し得た。

そしてそれは、「美しい死=死の完遂」を目指したからこそ、その「生に意義」を生じせしめたと言えまいか。
この主人公の少年も「死」を理解できず、その「生」が落ち着かず、いたたまれない日々を送っていた。

しかし彼女の「死」に向き合い、共に限りある命を共有する事で、最終的に「死から生じる生の尊厳」を知り、その心は少女が去った後でも安らかだったに違いない。

それゆえこの映画は、少年の微笑みのうちにハッピーエンドで終わるのである。

美しくイノセントな、死と命を巡るこの物語を見るとき、観客は「死」の必然と「生」の意義に真摯に向かい合わざるを得ないと思える。

Film2-GrenBar.png

スポンサーリンク


Film2-GrenBar.png

映画『永遠の僕たち』解説

海外の低評価と日本的死生観

感想で書いたように、この映画は「生と死」の相関を描いた、真摯なテーマを持った作品だと個人的には感じ、心打たれ高い評価を本作に付けた。
Film.jpg
しかし驚いたことに、この映画の評価はアメリカ本国では予想外に低い。

たとえば、アメリカの映画サイト「ロッテン・トマト」では、批評家の65%が低い評価を下し、一般の満足度も50%というものだ。
その批評を読んでみれば、スタイリッシュだが空っぽで何も語っていないと書かれており、なおさら混乱した。
しかしいくつかの批評をあたるうちに、それは、この映画の「死」の描写が受け入れられないのが原因だと、個人的には理解した。

なぜなら、この映画が死を肯定しているとか、死を賛美しているという点で、否定する評論が実に多いからだ。
しかし日本での評価は「83% のユーザーがこの映画を高く評価した」となっている。


この評価の東西の差違を考えるとき、その悪評の根本に「死生観」の相違があるのではないかと思える。
つまりこの映画には、日本人の持つ「死の美学」という価値観が描かれているには違いないが、その「死」とは真逆の西洋文明における「死」の認識があり、その「西洋的死生観」ゆえに、この映画を評価し得なかったのだと個人的には理解した。
どうも西洋において、その「死」の基本的な捕え方は、邪悪で否定すべき価値観として存在しているようだ。
F-japan.jpg
しかし、日本人にとっては「武士道とは死ぬ事と見つけたり」ではないが、「死という不可避」と対峙し「生を意義なさしめる」という考え方が伝統的にあり、その生の充実ゆえに「潔い死」を迎える事こそ美しいとする達観が、その無意識に在りはしまいか。
さらに推論を重ねれば、そんな伝統を持つ日本人にとっての死は、西洋文明におけるほど絶対的な拒否反応を生まないのではないか。

そんな日本的な死生観に通じるものを、この西洋の監督はこの映画で表現したのだが、それは西洋の人々にとってあまりにもユニークな観点で受け入れられなかったという事が顕わになった映画では無かったか・・・・・・
考えてみれば、ガス・ヴァン・サント監督が日本を舞台に撮った『追憶の森』という作品にも、日本的死生観が埋め込まれていたことを考えれば、そんな死生観に共鳴する作家なのかとも思う。

だとすれば、この監督の力量を持ってすれば、いつかその「日本的死生観」を持って、世界中の人々の心を震わせる日が来るのではないかと想像する。
rest_gas.jpg『永遠の僕たち』撮影時のガス・ヴァン・サント監督とヘンリー・ホッパー


スポンサーリンク
posted by ヒラヒ at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック