2016年05月18日

映画『晩春』秘められた日本の心/感想・解説

秘められた日本



評価:★★★★   4.0点

夏目漱石が「I Love You」を訳すのに、「月が綺麗だ」と表現した。
明治日本に「愛してる」という言葉は、現実的な肌触りとして違和感を感じさせたからだ。

そんなは「愛してる」は平成の今であっても、どこか非現実的な響きを持っていないだろうか・・・・

やはり日本人にとっては、本心を明快に開示するというのは、はしたない行為ではなかったろうか。
文化という他者との共通の規則・法則が必要とされるのは、他人との間に生じる摩擦や障害を、ルールに依って円滑に回避するために成立したとすれば、無言の内の了解こそ文化の究極であるだろう。

この映画の監督、小津安二郎の作品が日本的文化の様式を強く感じさせるのは、その「無言の了解」を映像様式として定着せしめたからだったろう。

この「晩春」は、そんな小津的な要素を、初めて世に問うた作品だ。
しかしそれゆえでもあったろう、この作品は「あからさま」すぎるほど、誇張された小津様式と、演者の強い感情表現を感じる。
ここには、剥き出しの感情の交錯が、直裁に語られていると感じられてならない。
ここには、小津が時代を下るごとに顕著にさせ、「秋刀魚の味」に至っては紙芝居の様な紋切り型にまで様式化された「無言の了解」に至る、出発地点を見ることができる。

そこには父と娘の間に「絶対的信頼関係」が成立しており、それは感傷的な情緒を基礎とした「日本家族の基本形」として家父長制の日本家庭で普遍的であったように見える。
したがって映画の終盤近く、父娘水入らずで結婚前に旅をした晩の、嫁に行きたくないという訴えとは「日本家族」のもつ、「絶対的信頼関係」に留まりたいという意思の表明だったろう。
そして、父が言う「それではいけない。それではお父さんが困る」という言葉は、「日本的家族の家父長」としてその娘を自らの「家」から追い出し、別の「家父長制」の元で新たな「絶対的信頼関係」を成立させるべき義務を負っているからに他ならない。

つまりこの映画で語られた「娘の嫁入り」とは、家父長たる父が自らの「絶対的信頼関係」にある娘を、自らの社会的義務として他家と「絶対的信頼関係」を結ばせる事である。

そしてそれは、「絶対」という語が示すとおり「他家と関係」を結ぶことは、その娘にとって実父の「家父長家族」を離脱する事を意味した。
これは日本家族が「絶対的信頼関係」を基礎としているが故の、義務化された「家父長制度」下における、「親殺し」「子殺し」描いた映画だった。

表面上は。

しかしこの映画には、上記以外の隠された「無言の了解」があるように感じる。

どう見ても、原節子の父に対する激白は、愛するものに対するプロポーズだ。
笠智衆の回答とは、愛するからこそ一緒になれないという、愛する相手に対する切ない拒絶だったろう。

ほんらい原節子のセリフは、以下のように読み替えられて初めて意味を成すと思っている。

原節子「私、今のままで良いんです。
結婚なんかしないで、小津先生と一緒にいる時が一番幸せなんです。」

この映画にあるものは、小津監督と原節子の秘めた愛情を、映画内の親子に仮託して、表現された物語だと信じている。

これ以降同じテーマが語られ、ますます様式的な表現で秘教的になるのも、二人の愛情の強さを糊塗する必要からではなかったか。

しかしこの映画の表す、「愛」を隠匿する節度こそ、日本的な美の本質であるようにも感じるのである。

二葉亭四迷はI love you をこう和訳したという。

わたし、死んでもいいわ。


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posted by ヒラヒ at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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