2016年05月03日

映画『真夏の方程式』一瞬の夏の乱反射/感想・あらすじ・解説・科学の限界

映画の科学



評価:★★★★   4.0点

実を言えば、この映画は大変巧くできていると感じました。
映画的なドラマの中に、「科学的な理性」と「人間的な感情」の相克を巧く取り込んでいるのは脚本、演出、ロケーションの相乗効果だと感じます。
しかも、ちゃんと福山正治の「ガリレオ」になっていて、フジテレビ的には珍しい「ドラマ」と「映画」のシンクロがなされているところも、高評価です。

『真夏の方程式』あらすじ

物理学者・湯川学(福山雅治)は、玻璃ヶ浦で進行中の海底鉱物資源開発計画に関する、科学的見地からの調査を依頼され説明会に向かっていた。
その列車の中で、湯川は一人の少年・恭平(山崎光)と出会う。子供嫌いの湯川だったが、たまたま湯川が宿泊する旅館、「緑岩荘」の経営者川畑夫妻(前田吟・風吹ジュン)の縁戚の子で、夏休みの間恭平と共に暮らすことになった。その旅館には、海底鉱物資源開発計画の反対運動をしている、旅館の一人娘成実(杏)もいた。
その旅館に逗留していた、もう一人の客は元捜査一課の刑事で、ある過去の殺人事件の真相を退職した今も追っていたのだった。翌朝、その元刑事は堤防下の岩場で変死体となって発見された。現地捜査に派遣された一課刑事・岸谷美砂(吉高由里子)は、湯川に協力を依頼した。そして、事件を巡る過去の因縁は、玻璃ヶ浦に集まった人々に、予期せぬ夏をもたらしたのだった・・・・・・

『真夏の方程式』予告


(製作国・日本/製作年2013/上映時間129分/監督・西谷弘/脚本・福田靖/原作・東野圭吾:「真夏の方程式」文藝春秋刊)

『真夏の方程式』出演者

福山雅治(湯川学)/古高由里子(岸谷美砂)/北村一輝(草薙俊平)/杏(川畑成実)/前田吟(川畑重治)/風吹ジュン(川畑節子)/白竜(仙波英俊)/塩見三省(塚原正次)/山崎光(柄崎恭平)/西田尚美(三宅伸子)/田中哲司(柄崎敬一)


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『真夏の方程式』感想・解説


この映画が語るテーマは、TVシリーズ同様、科学的な思考法によって世の中の曖昧さや混沌を整理し、真実に到達するという物語です。

この物語は、過去の殺人事件から逃げてきた家族が、海沿いの町で旅館を経営して暮らしています。
その下に、その事件の元担当刑事が訪ねてくるところから、大きく歯車が動き始めます。
その旅館に科学調査のため宿泊しているのが、主人公のガリレオと、夏休みの休暇に訪れたこの旅館家族の甥っ子です。

それは過去の事件から逃れようとしてきたこの家族にとって、過去に追いつかれた瞬間だったでしょう。

けっきょく、劇中で何度も繰り返される化学実験とは、目的に対する推論と、その検証実験、さらにその実験結果に基づく理論の構築という、仮説、実験、帰納的な結論の獲得という、科学プロセスを再現したものです。

それは過去の事件に対して、適切に対処しなかった(仮説のエラー)ゆえに、現実の対応を(実験プロセスのエラー)できずに、結果として混乱を生じてしまったと語られています。

その混乱の一番の被害者は、ガリレオと共に実験をした少年だったはずです。
この少年は、非科学的な混乱の影響で、自分の人生に知らぬまにマイナスを背負い込む事になります。
この少年もそのまま、非理系的な思考法のままであれば、自らの罪に無自覚でいられたのです。
しかし、ガリレオと共に過ごし、科学的な論理思考を我が物としたとき、この少年は自らの罪に気付かなければならなくなります。

しかし、たぶんこの少年にとって「なぜ罪を得たのか」の答えは、決して手に入りません。
ガリレオはそれを、少年に罪を着せた人々に、いつか明示せよと約束させます。
しかし、過去の犯罪を隠蔽するために少年の力を無断で借りたという事実と、それに対する謝罪でこの少年の罪悪感が消え去るでしょうか。

事件の背景と自らの成した事の論理的事実解明が成されても、なぜイノセントな自分が罪をえるのかという問いに対する答とはなりえません。

この何も悪くない少年に、その運命が巡ってきた必然、その運命を引き受けざるを得ない理由こそ、この少年の求める答えだったはずです。

この宇宙の時空のただ一点で交差した、全ての条件の必然とその意味を解き明かされることが、この少年にとっての「救済」だったでしょう。

その「救済」が本当に科学で可能なのかと問われるべきでしょう。

実際、それは神の作り賜うた必然のはずであり、人が慮れる領域ではないはずです。
つまりは、科学的な原因と結果のプロセスだけでは、人の心を「救済」し得ないのです。

けっきょくこの映画は、人間の主観的混乱を、科学という客観的な帰結に収斂させることを試みながら、それでも科学の結論が人の救いに至らないという限界を語った映画だったのでしょう。

この映画はそのテーマがドラマとして置換られ、映像情報もその非常な現実を表現して、効果的だと思います。

しかし問題は、映画の命題=テーマを、映像として置き換えていくプロセスにおいて、脚本・演出など映画的な諸要素は検証プロセスにより、変更・改変が可能だったでしょうが、唯一置き換えが効かない一点が存在した事です。

それが、この映画の主人公を演じた福山雅治です。
この映画が画がいた科学の限界に対する悲しみを、福山雅治は表現しなければならなかったはずですが、それが十分表現されたとは言いがたいと感じます。

そういう意味では、映画的なメッセージを届けるには、主役が福山雅治では表現できなかった(監督が表現させ得なかった)と言わざるを得ません。

結局、映画的な作品表現の充実を求めるならば、主役は福山で無いほうが効果的だったのです。
しかし、商業的な成功を求めれば、福山を外せなかったということだったでしょう。

この「映画的な成功」と「商業的な成功」という、相反する要素を共に満たす方法は、神のみぞ知るということでしょうか・・・・・・・・・・・・


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posted by ヒラヒ at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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