2016年04月17日

市川崑「おとうと」

救済の行方



評価:★★★★   4.0点

この映画は純文学作品だ。
個人的に、純文学とは純粋にその作者のみが表現できる文体や思想が、文学作品として表されたものだと思っている。
この映画も市川昆にしか成し得ない純文学として、スクリーン上に定着されていると感じる。
その市川様式で描かれた、この作品が持つ世界はどこか痛々しさを伴って見る者に迫ってくる。

この映画の主人公である岸恵子演じる姉の、新鮮で無邪気な、それでいて自分の魅力に無頓着な少女が、この映画の最後に見せる裂け目はどう表現すべきだろう。

もう一人の主人公たる、川口浩演じる弟のヤンチャ振りと、そこに隠された善良さも、また痛々しい。この姉弟は、父親の逡巡と継母の頑固によって、相互に頼る以外行き場が無い。

一見、この弟が一方的に姉に心配をかけているようにも見えるが、実はその事も含めて相互依存的に成立した関係だったろう。
つまり、姉の苦労や憤懣は、弟という絶対的庇護者に対する扶助となれば、実は迷惑をかけられることに喜びが有りはしなかったか。
また、弟の乱雑な行動やどこか投げやりな態度は、姉という唯一確実に愛を与えてくれる者が居ることの、確認行為だったように思える。
この二人が生きていけるのは、お互いにお互いを絶対的に必要としているという確信ゆえだったろう。

そんな二人の関係を思えば、特に姉にとってその弟の命が失われることは、比喩ではなく自らの落命と同義だったに違いない。
夜、手と手を紐でつなぐシーンの強い結びつきを見るとき、すでに死を覚悟した両者にとっては「心中」の道行を連想させる。

この二人の関係は、家族という以上に恋人としてあったのだろうか。
いや、それよりも更に純粋な何物かであるような気がする。
それは、特に弟の命に陰りが見えてからは、姉は一種の宗教的な敬虔を弟に見出していなかったろうか。

この弟の命がまだ輝いているという事実が、神の実在を姉に語りはしなかったか。
たぶん、この姉はその可憐な純粋の心を持って、全身全霊を持って神の存在を信じていたはずだ。
この世には神があって、この弟を守ってくれると。

しかし、神は裏切ったのだ。

その神の裏切りを目の当たりにして、この少女は崩壊したという事だったろう。
冷徹に命を奪い、命を生む、この残酷な現実世界に救済を見出せずに、魂が彷徨したのだ。
この姉と弟の深いつながりゆえに、より鮮烈に「神の不在」が印象付けられる。

ここに描かれた「救済無き世界」とは、地球上の大多数の人々にとっても、紛れも無く直面しなければならない現実であるはずだ。

そんな命綱なく中空に漂うような近代人の不安は、姉妹の生の輝かしき実体が印象的なだけに、より深く見る者の心を抉るのだ。

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posted by ヒラヒ at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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