2016年04月12日

ランボー

ランボーの意味したもの



ランボー評価:★★★★   4.0点

個人的にアメリカに対する偏見を持っていて、それは国土の99%は田舎だという事だ。

それゆえ、アメリカの閉鎖的な田舎町のレストランでも行こうものなら、地元民から白い眼で見られる。
特に、カラード=有色人種ならなおさらだ。
実際彼らは何世代にも渡って同じ町に住んでいるので、メチャクチャ閉鎖的で、排他的だったりする。

この映画のランボーは、正にアメリカ田舎主義者の犠牲者だったろう。

何といっても、ランボーはネイティブ・アメリカン(インディアン)の血を引く、ベトナム帰りの不審者だ。
アメリカの田舎では、アウトだろう。
じっさい、2016年の今、イスラム教徒がアメリカの田舎町にフラっと入ったら、命すらないかもしれない・・・・・
幸いこの映画では、ランボーがグリン・ベレーの精鋭だったから、そのサバイバル術で助かったが、一般人だったら無理だ。

ランボーもアメリカ人であれば、そこらへんの事情も分かりそうなものだが、ベトナム帰還兵として世間から冷たい眼で見られてきた身にとっては、我慢の限界と言う事だろう。
この映画で初めて、レインジャー部隊のサバイバル術によるアクションが描かれたように思う。
何も持たずに山中で戦う姿は、人間の暴虐に対する自然界の反撃と言うようにも見える。

また、ランボーにとって見れば、「国=権力」から押し付けられた技術を駆使して、「保安官=権力」と戦うという構図は皮肉なものだ。
しかし、ランボーがベトナムで国やアメリカ社会の期待に応えて戦って来たのに、アメリカが彼らに報いる事があまりに少ないとき、ランボーは虐げられた個人として、権力に復讐をしたのだと見ることも可能だったろう。

実際ランボーは、本来殺人者になる必要がなかったのに「国=人間」の都合により殺人兵器となり、「ジャングル=自然」に放り込まれ死ぬ思いをした。
その自然を生き抜く中で、「人間界=文明」の欺瞞を知り「自然界の摂理」を我が物とした。
それゆえ「人間界」に復讐する「自然界の化身」として、復活する。
じっさいランボーが「国家を人を信じない」言えば、この映画は首尾一貫した物語だったのだ・・・・・・・・・

しかし、結局ランボーが口にしたのは「国家への忠誠」だった。

ということで、アメリカの田舎は気をつけろという映画になってしまいました。


ランボー2評価:★  1.0点 / ランボー3評価:★  1.0点


けっきょく自然界の化身「ランボー」が活躍する、傑作映画になり損ねたことの代償として、「ランボー2」と「ランボー3」のランボーは「アメリカの暴走野郎」と成り果てた。
ランボー2作目は無いです。
これはあんまりdです。
1作目は、ベトナム帰還兵の苦しみを描いていたのではなかったか?
ベトナム帰還兵の苦難は、アメリカ政府とアメリカ軍産複合体の罪だ。ベトナムに戻って、ベトナム人に八つ当たりしてどうする!

べトナム人に迷惑をかけたという意識が、ミジンもないのだろうか?
スターローンの良識を疑う。
更にこの映画が、世界公開を普通にされてしまう、世界の現状にも驚く。

アメリカの正義は世界の罪悪だという事を、明確に認識しないと世界はますます悪い方に向かう一方だ。
この映画を見て、その破壊を楽しんだとすれば、もうそれはアメリカ至上主義を無批判に受け入れているということだ。

2作目・3作目は、これほど頭の悪い暴れっぷりをさらした、酷いプロパガンダ映画を見たことが無い。
相手が、エイリアンや、ゾンビだった良かったんだけど、人間相手に、しかも政治を持ち込んで殺しちゃダメでしょ。


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posted by ヒラヒ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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