2016年04月06日

パーフェクト・ブルー

ジャパニメーションの証明




評価:★★★    3.0点

このアニメが表したのは、アニメが実写と同等の質のドラマを描けるという事実だったろう。

日本アニメは手塚治虫の「鉄腕アトム」から始まって、徐々にその表現の幅を広げて、子供の見るコンテンツから、ジブリを経て、甲殻機動隊に至っては完全に大人が見て楽しむアニメとして製作されたように思う。

そして、このアニメに至っては、ハッキリ子供が見てもつまらない「アニメ」つまりは「大人でなければ楽しめないアニメ」として製作されたと思われる。
実際のところ、アニメでなければ描けないという描写は、作中に見当たらない。
つまりは完全に実写としてリメイクが可能な作品なのだ。

それゆえアニメのインサイダーからは、真に大人の表現力を持ったアニメという評価を得たのではないか。

実を言えば、このシッカリとしたドラマを「生身=3次元」の役者で、カメラアングルやカット割りモンタージュもそのままで撮影した場合、どれほど映画的に訴求力が有るのかと考えてみたりする。
脚本やコンテなどの下書きから想像すれば、標準作ではあっても傑作とはいいがたいと思う。

となれば、実写となった場合に強い表現力を持ち得ないこの作品が、アニメとして表現されたときに、実写とは違う訴求力を保持しうるかという問題になるだろう。

そういう点で検証すれば、タレントという虚像と自己のアイデンティティに悩む少女であるとか、現代的なネット社会のストーカー行為であるとか、先見的な問題に着目しているとか、またラストの犯人の正体も、衝撃があるとは思う。
しかし、アニメだからその表現が強くなったかと問われれば、素直に肯定しがたい。

たとえば、この映画と良く似た「ブラック・スワン」を見た時に、ビジュアル的なインパクトは明らかに実写の方が強い。
それは、血の描写を取ってみても、実写の場合は現実世界の血と直結してイメージされるが、アニメであれば虚構であるとビジュアル自体が告げている時点で、インパクトが弱くならざるを得ない。

けっきょく、アニメという一種抽象化した表現に求められる作品としては、現実世界よりもファンタジー世界が、日常よりは非日常が相応しいという事を、この作品は証明しているだろうと思う。

そういう点で個人的には、この監督の後年の作品のような、アニメだからこそ可能な造形、表現が、この作品には乏しいと感じた。

それゆえ、実写映画になった時の評価と同様平均作とした。
さらに、物語世界と語られる表現とのマッチングを考えた場合、この物語はアニメとして語られるのが、最も相応しい選択だったのかと問うこともできる。
そういう点で、更に減点する事も可能かもしれない。

ただし、この監督の以降の作品を見てみれば、その表現の基礎として、アニメで実写化可能な物語を語れる技術をベースにしている事を考えれば、この監督のファンのみならず日本アニメの愛好者が見る価値は有ると思う。

それは、実写で表現できる事は、すべて日本アニメで表現できるという証明であるからだ。

そこで提案なのだが、「2001年宇宙の旅」をアニメ化する人はいないだろうか。
あの映画のラスト数十分こそ、アニメ的な表現が相応しいと思うのだが、いかがだろうか?


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ラベル:今敏 江口寿史
posted by ヒラヒ at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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