2016年03月30日

図書館戦争

リアリティーとは




評価:★★     2.0点

いい評価では有りません。
この映画をお好きな方は、以下をお読み下さらないほうがよろしいかと思います。

正直いかがなモノかと思うのは、この映画の細部の作りこみだ。
公序良俗を乱す表現を取り締まるため、あらゆるメディアを検閲する“メディア良化法“なる法律ができている。
さらに、読書の自由を守る図書館の自衛組織“図書隊“というものが存在し、そこでは本の自由を守るためにやはり武装している。
この図書館組織“図書隊“ と良化特務機関"メディア良化隊"が、それぞれ武装し戦闘を繰り広げる。

この戦闘行為を冷静に見れば、これは国家権力が崩壊しているとしか思えない。
つまり警察組織も劇中で出てくるのに、それぞれの組織が武装し自衛するという状況をコントロールできていない政府となれば、もう警察権が崩壊しているのだ。
たとえば「麻薬Gメン」と「マルサ」が相互に戦闘するという事態を考えれば、この異常事態を放置する日本政府を想像できるだろうか?

これはもう政府としての機能が麻痺した社会状況であり、国家権力によって社会の安全を維持できていない事を意味するであろう。
しかし一方で、メディアに対する検閲は機能しているという時点で、設定自体が矛盾しているとしか想えない。

仮にこの映画で描かれた社会を、無理やり想定してみよう。

強い独裁者がいて強権を保持し、産業、軍事、政治に関しても強い支配力を有している。
更に、この独裁者は自分の利益以外は無関心で、メディアを管理したいという勢力と、表現の自由を守りたいという勢力が、対立戦闘状態になっても放置している。
この自己の利益のみ追求する独裁者の社会では、独裁者の興味は自己保全と権力・利益の強化だけであり、それ以外の政府機能が低下しているはずだ。
であれば、この社会では独裁者の絶対性を犯さない限り、武装しようが、汚職しようが、各々の利益の為に相当の勝手な行為できるはずだ。

そうであれば、その社会は絶対的な独裁者の下に、例えば犯罪集団であるとか、外国勢力や、悪徳企業が横行し勢力争いをしているだろう。
また“図書隊“や特務機関"メディア良化隊"など、それぞれ公的と名乗り「武装部隊」が乱立しているはずだ。
ここまで行けば、もう一般市民は不安と混乱で平常な精神状態を保つ事すら困難な社会となっているだろう。
いつ、独裁者の気まぐれで自分達の生活が壊されるか、武装集団の戦闘に巻き込まれるか、どこにも安心は無いだろうし、当然経済状態も悪化しているだろうから、骨と皮ばかりで暗い顔をしているだろう。
そんな陰鬱な市民の横を、“図書隊“や”メディア良化隊”が足音高く闊歩している世界を想像することはできる。

しかし、こんな混乱した社会で、本を守る守らないなど些事に過ぎない。

それでは、もう少し安定的な社会を想定してみよう。
一応、民主的な議会制を取っており、政府と、官僚機構が整い、三権分立も確立されている。
その社会に国を二分する政党結社があり、どちらかが政権を取れば警察、軍隊、裁判所の人事を掌握し、反対勢力に対して圧力をかける。
しかし、その二大勢力の対立が“図書隊“、"メディア良化隊"という武装衝突にまで至っているとすれば、社会的にはこの両陣営が全面的に争う前哨戦だろう。
当然その支持者同士も相当強い対立関係に有るだろうし、警察、軍の中でも対立が生じているはずだ。
となれば、この不穏な社会情勢下で市民も双方に分かれて、街中で殴り合いや怒鳴り合いがそこかしこで起こっているに違いない。
やはり混乱状態は否めず、暗い陰鬱な世界である。

けっきょくこの社会は、強い統制社会下で、対立するが勢力せめぎあっているということになる。
これも、もう内戦状態の一歩手前ではないか。

けっきょくこの、“図書隊“、"メディア良化隊" が戦闘を繰り広げる世界を想定すれば、この映画は「ディストピア」の世界にしかならないのだ。

この映画にその日常が少しでも見えるだろうか?
そもそもこの映画は、このメインストーリーの背景となる社会を、スタッフの間で100%共有しているだろうか?

物語のリアリティは細部に宿るのであり、細部がいい加減であればその物語の説得力は雲散霧消してしまうだろう。

その細部の描写は、実は小説や漫画であれば不十分であっても問題が無い。
それは、小説や漫画はそもそも情報量が限定的であるために、全ての情報を描かずに鑑賞者の想像に任せたほうが、実際の描写より強く鑑賞者の心の中で各々のリアリティを作り上げるからだ。
じっさいピンボケの写真の方が、見る者の心の中に強い像を結ぶのだ。

しかし映画はそうは行かない。
カメラに必然的に、客観的世界が写り込んででしまうからだ。
正直に言って日本映画の場合は、実に安直に現代風景を背景にして済ませてしまう。

たとえば、ハリウッド映画であれば現代ものであっても、その作品の世界観に合わせて町を一つ作るぐらいの事は平気でする。
なぜなら、物語のリアリティーにとって、それが必要だからだ。

日本映画の場合、特にマンガ原作の映画化では、このリアリティコントロールが不十分であるように思う。
それは、日本マンガの豊穣さを思うとき、日本実写映画界にとっても利益を上げ得る作品を、むざむざ捨てている行為に近いと思う。

いずれにしてもこの映画の物語世界にとって、現代日本の風景が真に相応しいものだったかどうか、私は問いたい。

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posted by ヒラヒ at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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