2016年03月18日

リード・マイ・リップス

愛の共犯者



評価:★★★★   4.0点

いかにもフランスの犯罪映画らしい一作。
個人的にフィルムノワールの特徴はロマンチズムに有ると思っている。
この映画にしても、犯罪の緊張感にオーバーラップして、男女の恋愛関係の進展が描かれていく。

冒頭は静かな描写ながら、犯罪計画が進展するにしたがって徐々に映画の緊張感が高まり、その計画の成否がどうなるか固唾を呑んで見守る事になる。
また、ここに描かれている二人の姿も、最初はくすんで鈍い印象だが、犯罪に手を染め出してから輝きを増していく。
そしてその最後には、特にエマニュエル・ドゥヴォスは、エロチックな変容を遂げる。

つまりこの映画は、恋愛とは罪を共有する事だと語っている。
その「罪=タブー」を犯すことによってしか人と人の愛が作りえないという事実は、子が胎内に育まれたときに注がれる愛情が、すでに「親=夫婦間」の愛の簒奪によってしか得られないということと、子の存在が常に母体にとっての生物学的危険として存在するという、その「愛の矛盾」が物語っているだろう。

さらにこの女性の耳が聞こえないと描かれるとき、このヒロインの孤独が「言葉の欠如」によって生じるというのは重要だ。
すなわち、「赤ん坊=人」の愛とは母の胎内で100%充足していた状態から、欠落し続ける運命にある。
そして、母と別れた存在となった「赤ん坊」は、失った母を求めて言葉を獲得する。
つまり、言葉それ自体が愛の代償行為なのだ。

そして、このヒロインは言葉が聞こえないというとき、それは「愛」を受け取れないという表現であるはずだ。

しかしこのヒロインが失った「愛」を取り戻す瞬間が描かれる。
それは、この犯罪のクライマックスにおいて、両者を隔てていた距離をつないでいた「言葉」が伝達不能になるシーンだ。
現実的に両者の間に「言葉」が喪失して、その空間的距離が発生したとき、残された視覚情報がこうも強く「愛」を生むのだと語っている。
それは映画という視覚芸術の可能性を語るものでもあったろう。

すなわちお互いの関係性が物理的に一番隔絶し、言葉も届かず、相互に触れ合えない状況に陥った時こそ、最も狂おしく相手を求めるという心理が鮮烈に描き出される。
けっきょく、人は「愛」を失うからこそ「愛」を生み、人から隔たるから「愛」を生むのだ。

その「愛」を強く強固にしようとして、人は愚かにも距離をつめ、多くの言葉で飾ろうとする。
しかし、その行為は多くの場合「愛」を殺す事になるのだと、この映画の影の主役、妻を愛し続けた「保護観察司」が語っていたのだろう。

結局のところ究極の愛とは、このヒロインのように「言葉による愛」を捨て、真に他者との間に命の共有=共犯関係を成立させることに他ならない。

仮にこの、言葉を超えた共犯関係が他者との間に成立すれば、それこそ人間の最も強い「愛の原型」である、母と嬰児の関係に帰結することになるだろう。

この映画で語られた二人の共犯者こそ、最も「完全な愛」の充足に近づいた恋人達だといえるだろう。

そんな愛の本質を、ドラマとしての力を削がずに語り得た、いかにもフランス映画らしい作品だと感じた。


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posted by ヒラヒ at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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