評価:★★★★★ 5.0点
TVや映画になったこの作品を見た人もいると思うが、それらの作品でこのマンガを読みもせずに終わらせるのは本当に残念なことだと思う。
過去の実写作品では、断言するが、この物語の持つ世界を伝えることに失敗している。
このマンガは少年マンガ誌に掲載されたものだが、その内容は子供が読むより大人が呼んだほうが素直に楽しめる。
例えば収録の「コンクリート・ゲリラ」は全共闘華やかな時期の闘いを描き、「爆破105」ではベトナム戦争時の米軍兵が敵である。
そして最終話「魔像の十字路」では日本を独裁化しようとする強大な相手と、闘う。
それは、とても少年誌に連載される作品とは思えないくらい、社会性や、暴力性に満ちている。
実際、編集部でも正義のヒーローが悪人といえども殺していいのかと、議論になったそうだ。
この当時、マンガの発表の場はメジャー出版社ではほぼ少年誌しかなく、今であれば青年マンガ誌に掲載されるべき作品も掲載されたのである。
そもそもマンガの神様、手塚治虫の初期作品にしてから、エネルギーやマグマ、アトム、ウランなど、とても子供に合わせた作品を作るという意識ではなかった。
明らかに作家の書きたい物を書いているのだ。
もちろんこれは、戦後マンガ界黎明期の、少ない書き手で少女マンガすら描かねばならない時代だからこその「我がまま」で在ったかもしれない。
しかし、この自由な表現によって培われた力が「マンガ」に、全てのジャンル=喜劇・悲劇・活劇・SF・恋愛劇など、ありとあらゆる表現を可能とさせた。
そして日本マンガが、特定ジャンルしか表現し得ないアメリカンコミックを凌駕し、世界標準となる事を可能としたのである。
そして同時に、そのマンガの表現の自由度が高かったために、多くの才能を集め得たと思うのである。
じつは、日本のマンガ家(アニメーターも含め)の中には、実写映画を志望していてその道があまりに閉鎖的であるために、マンガ界に流れて来ざるを得なかった才能が相当数いる。
そして、この作者もその一人だったろう。
よく見れば、この作品のそこかしこに、これはリー・マービンの手だとか、モデルはチャールズ・ブロンソンとか、フィルムノワールの影響にいたるまで映画的なイマージュに満ちているように見える。
更に、そのアクションの種類も銃撃戦から格闘戦、飛行機の爆撃から、密室で爆弾の信管を外してみたり・・・つまり、古今東西のアクションのコラージュでもある。
実際、作者、望月三起也は一貫してアクションを描いてきたマンガ家だが、そのこだわりは拳銃と機関銃の着弾を描き分けるほどで、また、作中のバイク、車、飛行機に至るまでモデルに忠実である。
そしてこの才能が、最もマンガの表現の拡大に貢献したのも、やはりそのアクション描写であったろう。
この作者は、ほぼ一巻、車のカーチェイスを描いたことも有るし、建物内の爆弾解体を延々と描き得たし、アラモ砦のごとき、七人の侍のごとき、銃撃戦を迫力とともに表現しても見せた。
この映画的なアクションシークエンスを、完璧にマンガで描ききれる事を証明した作家こそ望月三起也である。
例えば「ゴルゴ13」や「ルパン3世」という例に比べても、アクションシーンそれ自体を描く能力は、彼以上の力を持つ作家はいない。
いずれにせよ日本のマンガ表現とは、絵を主体としたメディアで有るが故に、子供に伝わりにくい内容であっても表現として訴えかける力が強いがために、作家が自由に描ける許容力を持っていた。
そういう中で、才能を持った人々が集積し、新たなマンガ表現を追加し革新していき、ついには「マンガ」がスタンダード=世界標準として成立する力を持ちえたと思うのだ。
このマンガが示した「映画的活劇」の成功は、上で述べたマンガの「スタンダード・メディア」としての成立過程を、明確に示したに実例だったろう。
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ラベル:望月 三起也