評価:★★★ 3.0点
このフランス人映画監督が撮ったジャズ映画は、錚々たるジャズミュージシャンが出演しているにも関わらず、どこかジャズっぽくないと、私には感じられました。
その原因が今一つつかめないため、いまこれを書いています。
出演者というか演奏者は、デクスター・ゴードン、ハービー・ハンコック、ボビー・ハッチャーソン、ビリー・ヒギンズ、ウェイン・ショーター、ロン・カーター、トニー・ウィリアムズ、フレディ・ハバード、などいずれも現代ジャズ界のそれぞれの楽器を代表する超一流です。
その演奏するジャズは本物です。
しかし、そんな音楽をつかいながらもどこか監督タベルアニの描くジャズの表現には、なにがしかの違和感を覚えるのです。
ここに描かれたジャズは「アフリカ系アメリカ人=黒人達」の苦悩、絶望、悲劇、呻吟、望郷、相克から、必然的に生まれた感情表現を内包していないように聞こえます。
正直に言えば、私が慣れ親しんできたジャズというのが、そんな「魂の叫び」として感じられたということです。
しかし冷静に考えれば、結局同じ対象であっても見る者によって様々の解釈が成り立つのが当然で、更に言葉を持たない音楽様式であれば、解釈の幅はさらに広がるに違いありません。
さらに言えば、フランス人、フランス文化という特異性がこの映画に見えるように思うのです。
フランス人監督を思い出して下さい。
ルネ・クレール、フランソワ・トリュフォー、ジャン・リュック・ゴダール、ルイ・マル、エリック・ロメール、アラン・レネ、ジャン=ジャック・ベネックス、パトリス ルコントと並べてきて、その印象は「混沌=カオス」としか言いようがありません。
ハリウッドは勿論、イタリア映画や、インド映画、日本映画に較べても、その「国=民族」の映画の色がフランスの場合は不明瞭な気がします。
しいて言えば、作家主義的と言う事も出来るでしょうか。
では作家主義とは何でしょう。
基本的にはハリウッド・システムのような分業による作品作りではなく、作品のあらゆる要素に監督の意向が沁み込んだ映画だと勝手に解釈しています。
そう思うとき、作家主義という表現は「モノローグ=独白」のようなものであり、それは描かれた「映画世界」に対する監督の視点であると言い換えられるのではないでしょうか。
そう考えて来た時、フランスという国の持つ、文化、芸術、思想など、あらゆるものが個人を通して、解釈・理解された上で、外部に提示されているいように思えます。
であれば、この映画に現れた「ジャズ」は、監督タベルアニの内的世界であると言えます。
つまりはタベルアニ自身が己の中で構築した「タベルアーニ・ジャズ世界」であって、その世界のリアリティはタベルアーニ個人のみが感じられる、一種ファンタジーに近い表現へと昇華しているのではないでしょうか。
つまりは、その「タベルアーニ・ジャズ世界」と私の内部にある「ジャズ世界」が、乖離していたということだったでしょう。
結局そう思えば、私個人の受け取っていた「ジャズ」も客観的現実というよりも、私の中の「ファンタジー」として存在していたに違いないと気づきました。
たぶんこの監督は、音楽シーンの表現やミュージシャンの扱いを見れば、心からジャズを愛しているのだろうと思います。
そしてその愛するジャズを映画として表現した時、それは彼のファンタジーとして成立してしまったように感じます。
作家とは往々にして愛情・執着を強く注げば注ぐほど、強く固く高く、自らの内にその対象の「王国」を築き上げるのではないでしょうか。
そう考えた時このファンタジー映画を楽しむためには、私の内のファンタジーが強く成立してしまっていたということなのでしょう。
このイメージの「かい離」こそは、マンガと映画、小説と映画の関係のように、すでに自らの内なる「イメージ=ファンタジー」が確立していた際に生じる「ギャップ」の正体であるように思うのです。
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