2015年07月26日

『マイ・ビューティフル・ランドレッド』これはLGBT映画か?/あらすじ・感想・解説・パンクの時代

ロンドン・パンクの源流

原題 My Beautiful Laundrette
製作国 イギリス
製作年 1985
上映時間 97分
監督 スティーブン・フリアーズ
脚本 ハニフ・クレイシ


>ロンドン文化好き評価:★★★★   4.0点

映画ファン向け評価:★★★     3.5点



映画として完成度が高いわけでも、見終わって爽快感があるわけでも、感動して忘れられないというわけでもない映画。
しかし、それでも、見るべき価値がある一本。
パンク・ロックがなんであんなに怒鳴っているのか、この映画を見ると分かる。

『マイ・ビューティフル・ランドレッド』あらすじ


南ロンドンに住むパキスタン青年オマール(ゴードン・ウォーネック)は、父(ロシャン・セス)と貧相なアパートで2人住まいだった。父は昔インド・ボンベイで新聞記者をしていたが、母国の動乱で国を追われ妻を亡くし、異国イギリスでアルコールづけになっていた。オマールは父の紹介で、実業家の叔父ナーセル(サイード・ジャフリー)が経営するガレージで働き始める。ナセルは成功者で、イギリス女性レイチェル(シャーリー・アン・フィールド)を彼女にしていた。ナセルの屋敷でオマールは、いとこのタニア(リタ・ウルフ)、いとこのサリム(デリック・ブランシュ)と再会する。その帰途、移民を狙うパンクの集団がオマールに襲い掛かってきた。しかしその中に、幼ななじみのジョニー(ダニエル・デイ・ルイス)を発見し、運よく難を逃れた。ジョニーとオマールは久々の再開に、また連絡を取り合う事を約束した。オマールは南ロンドンのコイン・ランドリーの経営をまかされるが、順調とは言えなかった。そこで、ジョニーに手伝いを頼んだのだが、パンクと移民は仕事を取り合う、犬猿の仲だった・・・・・・・・

『マイ・ビューティフル・ランドレッド』予告


『マイ・ビューティフル・ランドレッド』出演者


ゴードン・ウォーネック(オマル)/ダニエル・デイ=ルイス(ジョニー)/サイード・ジャーフリー(ナーセル)/ロシャン・セス(オマルの父)/シャーリー・アン・フィールド(レイチェル)/リタ・ウルフ(タニア)/デリック・ブランシュ(サリム)


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『マイ・ビューティフル・ランドレッド』感想・解説



どうもイギリス国内向けで、お金もかけて無さそうで、イギリス社会の背景を説明もしていないので、いきなりこの映画を見ても何を云ってるのかよく理解らない。
そこで調べたのだが、サッチャー政権下でイギリス政府の財政赤字を削減するために、緊縮財政を採用したため景気が減退し、労働者階級の仕事が減り、更に社会保障を切り詰めていたため、不平不満が溜まりその鬱積によって不穏な社会状況だった。

その不満が、パンクスとして暴れたり、フーリガンになってケンカしたり、パンク・ロックとして叫んだり、という爆発の形を取る。

この映画でもダニエル・デイ・ルイス演じるパンクスが、仕事がなくて車を襲ったり、泥棒したりするシーンが出てくる。もっとも衝撃的だったのは、空き家にロープで上って窓から入っていくシーン。
家賃を払う金銭的余裕がないから、不法占拠をしているのだ。
1985年のロンドン市内の話なのだから驚く。
そんな若いパンクス達が仕事もなく、日中そこらでブラブラしているのを見れば何が起こってもおかしくない。

このパンクスが敵対視する集団の一つが、移民たちだ。
パンクスにすれば、労働者階級の仕事を安い賃金で奪ってしまった、移民者を憎んで当然だ。
しかし、この映画で描かれているパキスタン移民たちも、かつての宗主国イギリスのせいもあり、祖国に帰れない。生きるためには、イギリスで安い賃金ででも働くしか、途がない。

結局社会的・政治的な歪みが、パンクスとパキスタン移民の対立を生んでいるのだ。
弱いものが更に弱いものを虐げる、イジメの構図である。

そんな背景のもとで、この映画で語られるのは対立を超えた愛の物語だ。

パキスタン青年オマールと、その幼馴染のパンクスのジョニー、この主役二人は成長し再会し、協力してコイン・ランドリー(ランドレッド)の仕事を始める。それぞれの所属する集団からは、白眼視されても最終的に共に歩む道を選ぶ。

それは彼らが「ゲイ=愛」で結ばれているからだ。
それゆえこの映画を「ゲイ映画」として評価する向きもある。
確かにダニエル・デイ・ルイスは魅力的だし、二人が愛を交わす場面がドラマとしてのクライマックスでもある。

しかし文脈としていえば、ゲイの映画内での意味合いは、対立を超えるための「愛」の重要性を強調するための表現だと思う。
なぜなら、自らの帰属集団内でも愛が無いために、別れる者たちの姿が並行して描かれているからだ。

この対立、それぞれの帰属集団の描写、未来の理想、現実の解決などを、ドラマとして表現する脚本が素晴らしいと思った。舞台劇にしても、十分説得力があると思う。この脚本家がパキスタンの血を引いているところから考えると、自伝的な面もあるのかもしれない。

しかし、個人的にはイギリスの若者映画には、例えば「さらば青春の光よ」にしても「トレイン スポッティング」にしても「リトルダンサー」ですら、どこかブリティシュロックの持つ、飾り気がないけれども強いメッセージを発する「パワー=伝達力」が共通して在るように思えるのだ。

それはブリティッシュ・ロックと英国若者映画の基盤が、共通して「労働者階級」に有ることと無縁ではないと思うのだが・・・・

この映画も、やはり、そんな「ロック魂」を感じた。
ロックやロンドン若者文化に価値を見出すものなら、もう一度言うが、見る価値がある。

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posted by ヒラヒ at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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