2015年07月17日

映画『華氏451度』どうしたトリュフォー?/あらすじ・感想・解説・意味

不完全燃焼



評価:★★     2.0点

フランス映画の巨匠、フランソワ・トリフォーのSF映画。
原作は名作の誉れも高い、アメリカのSF作家レイ・ブラッドベリーの同名小説である。
題名『華氏451度』とは摂氏233度で、本が燃え上がる温度だというが、この映画自体はどこか燻っている印象が強い・・・・・

『華氏451度』あらすじ


徹底した思想管理体制のもと、書物を読むことが禁じられた社会。禁止されている書物の捜索と焼却を任務とする「ファイアマン」のモンターグ(オスカー・ウェルナー)は、偶然出会った可憐な女性クラリス(ジュリー・クリスティ)の影響で、本の存在を意識し始める。テレビのままに動く無気力な妻リンダの空虚な生活と違い、クラリスは本に熱意を持っていた。チャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』から読み始め、活字の持つ魔力の虜となったモンターグ。だが、彼を待っていたのは、リンダ(クリスティ2役)の冷酷な裏切りと、管理体制からの粛清だった。(wikipediaより)

(原題Fahrenheit 451/監督フランソワ・トリュフォー/脚本フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール)

『華氏451度』出演者

ガイ・モンターグ(オスカー・ウェルナー)/リンダ:クラリスの二役(ジュリー・クリスティ)/キャプテン(シリル・キューザック)/ファビアン(アントン・ディフリング)/ヘンリ(アレックス・スコット)


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『華氏451度』感想・解説


じっさい映画を見てみると、トリフォーの世界観はSF的に細部まで構築するというよりは、自分の気になったビジュアルをそこかしこに埋め込んだようななイメージだ。
考えてみればトリフォーが中核を担った、ヌーベルヴァーグ運動自体、個人的感性を映像に忠実に置き換えるモノではなかったか。

そういう意味では、この映画における世界観は原作でイメージする、デストピアとは違う。
これは作家=トリュフォーにとっての、内部イメージの具現化だからである。
そう思って見た時、ニコラスローグという無機質なSF的な絵を得意とするカメラマンを持ってしても、未来的なイメージを作れていないのは、トリュフォー自体の資質と相反する世界観だったと言わざるを得ない。

SF的に唯一それらしいのは、逃げる主人公を追跡する者が空を飛んでくるシーン位だが、それは逆にチープで違和感を観客に与える効果しかない。

じつを言えばこの映画を鑑賞している間、そんなSF的世界観も含めて、常に違和感とともに在った。
この映画でトリュフォーは、自ら崇拝するアルフレッド・ヒッチコック監督が使った手法を、そこかしこで展開している。
個人的な解釈とすれば、サスペンスシーンがたくさん詰まった物語だから、この原作を選んだのではないかとすら疑っている。

しかし、残念ながら、本家ヒッチコックの香りが漂いはするものの、肝心のスリルやサスペンスの表現としては、失敗と言わざるを得ない。
トリュフォーの場合アクション=動作によって、サスペンスを表現する技術が、その意欲ほどには高くないと感じる。
むしろ真骨頂は、対峙する人と人の間に走る心理的な緊張感に有ると思うのだ。

結局この映画は、トリュフォーにとっての「若気の至り」とでも呼ぶべきものだったろう。
誰でも若いうちは、自らの可能性にチャレンジしたくなるものだ。
ましてや、この原作の持つペシミスティックな世界観や、ヒッチコック的な演出をフンダンに使える題材となれば、この監督にとっては「やらねばならない作品」であったろう。

しかし結果的にトリュフォー自身も、この映画を失敗作として総括したのではないかと疑っている。
なぜならこれ以降、男女間の心理的サスペンスを扱いはするものの、SFファンタジーや犯罪サスペンスには手を出していない。
結局、この一作で自らの資質に関して、客観的に理解したのではないか。

例えばこの映画でも、鮮烈なイメージがそこかしこに輝くのは、さすがにこの監督の力量を証明するものだ。
映画内で印象的な「赤の壁の鮮烈さ」はモダン・フランス・アートに通じる造形力を持っている。
妻とベッドで抱擁するスリリングなシーンはトリュフォーお得意の恋愛心理劇であり、その心理的な駆け引き上の無言のサスペンスこそ、ヒッチコックから継承した一番の力だろう。
そして、ラストの雪が舞う村の光景は「古典的ヨーロッパ」の自然観であり、この監督の映像的な情緒性が際立つ表現である。

しかし、その素晴らしいイメージも、つまるところ現実世界の人間ドラマにおいて、最も発揮される輝きではなかろうか。

トリュフォーは言う「暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は作りたくないし、政治にも興味はないから自分には恋愛映画しか作れない」

この言葉に若干の欺瞞を感じるのは、「戦争映画や西部劇は作りたくない」ではなく、この映画が証明した事実からすれば、やはり「作れない」が正確であったろう。

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posted by ヒラヒ at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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