2015年06月26日

マッドマックス

神話になったヒーロー



評価:★★★★★  5.0点

この映画シリーズによって、文明崩壊後の弱肉強食の暴力が支配する世界観が、ビジュアルイメージとして定着された。
この映画の製作年代は冷戦の真っ只中の、ある種閉塞感を持った世界情勢であった。
そんな硬直した世界をリセットしてリロードするという荒業は、どこかシュミレーション・ゲームめいて刺激的だった。

映画は第一作目の文明社会において、主人公は暴走族により家族を失う。
これは、近代文明が作り出した暴力的な組織支配によって、抑圧された個人の象徴である。
それはこの主人公が警察官という公的組織に居ながら、復讐という個人的理由のために組織を脱することでも明らかだ。
この一作目は全シリーズのプロローグを成す物であり、主人公は文明社会を焼き尽くす復讐者となり、機械文明(暴走族)に対する、徹底的な容赦ない戦いを繰り広げる。

そして第一作目のラスト、暗闇を走る主人公。
自らの所属すべき場所を裏切った主人公は、自ら滅びざるを得ない。
すでに主人公は亡者となっているのだ。
その証拠に、通常の物語原型として考えれば、王座に着こうとする英雄には伴侶=姫が必要とされるのに、その後のシリーズで主人公の前にヒロインは現れない。
死者に伴侶は必要無いからである。

つまり彼はすでに文明に復讐する鬼神=魂魄となって、その後の第2作、3作を戦い抜く。
そして回を重ねるごとに、文明の痕跡が少なくなっていくのは、主人公の戦いが確実に文明を崩壊に至らしめたことの証左であるだろう。
第三作目に至っては、すでに悪役マスター・ブラスターに見られるごとく、文化と権力が乖離して存在していることが示される。
全ての文明の基礎は権力が力の正当性を記録させるという、権力と文化の強制的一体化を必要とするならば、もうこの時点で過去の文明が滅亡していることが、明確に表されている。

それゆえ3作目サンダ―ドームのラストは、すでに文字という記号すら持たない、文明を失った幼い子供たちが、新たな神話を語る事で終わる。
過去の文明はこの鬼神となった主人公によって、焼き尽くされたのである。
それゆえ、鬼神は新しい文明の担い手=子供達によって永遠に神として崇められることとなるのだ。

それは結局、文明というものが持たざるを得ないある種のデザインが、全ての意匠がそうで有るように、最終的には機能不全に陥ったとき、一度全てのデザインをリセットしない限り、新たな文明を創造し得ないという真実を現しているだろう。

繰り返しになるが、英雄=ヒーローとはしばしば社会構造的なな閉塞を、理非を超越した超人となって壊滅させうる存在だ。
そしてまた、全てを焼き尽くすがゆえに己の命も喪わなければならない。
それゆえ、全てを原初に戻すと同時に、原文明と運命を共にする存在となる。

この映画の主人公は以上のように、神となって旧文明との黙示録戦争に勝利し、新たな文明の芽を育んで、旧文明に殉ずるのである。

これほど完璧に、英雄譚を語りえた作品を、私は知らない。

実際、その後「文明崩壊後の世界」という設定が繰り返し映画で描かれているが、このオリジナルの物語の神話構造の強さは、特筆されるべきであろう。
この映画の世界は、よくよく見れば、昨今のCGを多用した映像に比べれば、車の数や壮大なアクションというスケール感では、到底及ばないかも知れない。

しかし、特に映画館で見れば分かる通り、圧倒的な迫力と、強いリアリティによって、この架空世界を真実とする説得力を獲得している。
その力は、CGではない生身の人間が格闘する姿や、オーストラリアの大地を圧倒的なスピードで走りぬける車やバイクの、本物だけが表現できる力によるだろう。
その力があればこそ、このSFとも呼べないB級映画にして、映画の古典、永遠の傑作となり得たと思うのである。

正直オリジナルの完成度の高さを思うとき、リメイクされたという新たな物語を見ることを、今はまだ肯んじ得ないでいる。

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posted by ヒラヒ at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | オーストラリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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