2015年04月30日

大藪春彦『野獣死すべし』戦後の焼け跡から生まれた反権力の化身!

このヒーローを殺すな!



評価:★★★★★  5.0点

伊達邦彦。この英雄の物語は天才作家、大藪春彦の手によって創造され、昭和の男達を熱狂させた。

大藪春彦の小説の中には、直截な男たちの欲望が渦巻いている。
金・女・力を奪取する飽くなき闘争が、小説の全編を覆い尽くしている。

これは端的に、焼け跡から出発した戦後日本の欲望であり、大藪春彦の小説群はそのまま欲望の「イコン=聖像」として在った。その正邪を超えた、なりふり構わぬ、阿修羅のごとき姿は、正に「野獣」であり、それこそ時代が求める「英雄」であった。

しかし、この作品は処女作であるだけに、後年の欲望まみれの小説に較べまだナイーブだ。
それゆえ計らずも、このヒーローが成立した背景が、その精神の苦悩も含め透過して見える所が魅力となっている。
即ち陽炎のように主人公の周りにまとわりついている、戦争の災禍。
その傷と痛みを経験した人間が持たざるを得ない業が、剥きだしで表現されているのだ。

結局、この主人公は少年期に死と暴力の中に常駐したが故に、戦闘中の狂気を自らの日常としてしまった。
少年は長じて、自らの狂気を飼いならし、その狂気をテコとして、己を狂気に駆り立てた社会・国家から全てを取り戻そうと戦い続ける兵士となる。

何者も信じず、ただ自らの力だけですべてを強奪しようという兵士の姿は、それは平時においては「狂気」と呼ぶべきだろう。
しかし、戦後の日本においてこの「狂気」は遍く在ったのである
それゆえ、その「狂気」を経済に向けた日本人は「エコノミック・アニマル」と呼ばれたのだ。

つまり主人公の戦いの軌跡は、形はどうであれ、戦争の喪失を埋めるための飽くなき闘争だ。

この作家は、この作家の小説群は、大衆の欲望に殉じた。
大衆の欲望とシンクロし、その欲望の吐け口として存在した大衆作品は、往々にして文学的な価値を認められない。
そして、ついには消え失せて行く運命を迎えがちだ・・・・・事実あれほど並んでいた大藪春彦の小説は、今や探す事の方が難しいほどだ。

大藪作品もやはり、大衆を熱狂させ時代とともに消えていったベストセラー作家と、同様の道を歩んでいると認めざるを得ない。

しかし、それでいいのだろうか?

もう一度言うが、この作品は戦争を経た少年が、死ぬまで狂気と共に生き続けなければならない事の証明だ。
その戦争を経た人間の欲望が、いかに強いか。またその充足の闘いが、いかに激烈かの証明だ。
戦争がもたらす狂気と、戦争が奪う日常を取り戻す闘いが、かくも深く激しい事を圧倒的な物量で語っているのだ。

戦後の繁栄の元に戦わなくともよくなった現代人が、何者を踏み台として今日在るのか、この小説によって明らかになるはずだ。

また同時に、戦争の傷がどれほど人を歪ませるか「主人公」を通し理解できたなら、現在進行中である政府の「戦争への道」を阻止すべきだと考える人々が、増えるに違いない。

かろうじて、今なら・・・・まだ間に合う・・・・・・まだ読める・・・・・・一人でも多くこのヒーローの闘いを追ってほしい。
戦争を少年期に経験した作家の作品は、必ずその痕跡を残し戦争の悲惨を伝えるものだ。
しかし、この作品ほど戦争の狂気を示して、人間の人格を浸蝕しうるかを直截に伝えた例を知らない。
それは感情を排して行動で語る、ハードボイルドの様式で戦争の傷を描いた事によって、戦争の持つ悪魔的な力が文章に宿ったように思える。

それゆえこの小説を読む事は、日本人の義務ですらあると思う。

戦争が日本にどれほどの痛みを生ぜしめ、戦後日本がどれほど苦しい戦いを成したか、この男の行動を追うことで追認すべきなのだ。

関連レビュー「映画:野獣死すべし」:http://hirahi1.seesaa.net/article/418242747.html

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ラベル:大藪春彦
posted by ヒラヒ at 19:00| Comment(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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