2015年04月19日

奔馬―豊饒の海・第二巻

三島由紀夫という仮面



評価:★★★★★  5.0点

三島由紀夫について、個人的に一つの問いを持ってきた。
彼が同性愛者としての性向を持っていたのではないかという疑念である。
その疑念は「豊饒の海」四部作、とりわけこの「奔馬」を読むことで培われ、何度か読み返すうちに確信に近く、私には感じられている。

実際、彼が頭脳は明晰であったものの、肉体的な脆弱を劣等感として持ち結果として創作に向かったという考察は、多くの研究者が言及する。
そう思ってみれば、三島とは自らの肉体的虚弱さを糊塗するためにその作品を生み出したに違いない。
であれば、その作品に「仮面の告白」があるように、彼=平岡 公威として生まれた「実の姿」を隠ぺいするための仮面として三島由紀夫が必要とされたのであろう。

確かに、彼の文学の根幹をなす古典的構成であるとか、人工的虚構世界であるとか、秘匿された欲望の指し示すのは、その作者の真実から乖離するために築き上げられた王国であるように思われる。
さればこそ、三島が太宰治の露悪的なまでの自己懺悔に対して、拒否反応を示したのも当然であったろう。

結局、三島は己の虚弱を、文学という虚構世界の確立の内に隠匿しようとした。
しかし同時に、現実でもその肉体の弱さと格闘し克服しようと、その肉体をボディービルで改造する。
ついには、鍛え上げた肉体の自信でもあったろう、国家にその身命を捧げるために「盾の会」を結成し、若者たちと軍事訓練を行うようになる。

この右翼的殉国の兵士という三島の理想自我とは、その人生における劣等感の対極であることが了解されるであろう。

また、この理想像が男性ジェンダーの究極というべき英雄像であってみれば、過去の劣等感の本質が己のジェンダー不安にあったと見るべきである。
こういう、ジェンダーに対する恐れは、しばしば同性愛的傾向をその人物に与えはしまいか・・・・

個人的には、ボディービルから「盾の会」の現実的行動が進むにつれ、彼の文学から「魅力=虚構力」が喪われていくと感じている。
それは己の虚弱さが現実で克服され得れば、文学的虚飾が不要になるとも言わんばかりである。

代わって、後期の彼の作品は己の目指す理想自我を、臆面もなく表白する作品としてありはしまいか。

例えばこの作品において主人公の右翼少年は、国家的な大義と信ずるモノのために殉死する。
その場面の三島の描写が、何と艶めかしい事か。
神々しく、静謐で、光輝にあふれ、凛として、しかし何よりもエロスに満ちている。
私はかって、ここまで神聖とエロスが融合した文章を読んだことがない。

実際この二巻目の「奔馬」こそ、彼が現実に四谷防衛庁で成就した行為であり、それは自ら為す行為のシュミレーションである。
この作品の本質は、三島が自らの欲望を現実に満たす前の、マスターベートとしてあると感じられてならない。
この作品において初めて三島は、今まできらびやかな修飾で秘してきたその本質を、一瞬の閃光のうちに曝け出した。

これは三島由紀夫という仮面が外れ、彼=平岡 公威の欲望が迸った瞬間に違いない。

私は、この四部作「春の雪」を若き日の平岡 公威の夢、そして「奔馬」が平岡 公威の最後の夢だと考えている。
そして、その目的、理由がどうであったとしても、「春の雪」、そして「奔馬」を文学作品として愛している。

なぜなら晩年の作品群の中では、飛び抜けて文章による芸術度=文芸度が高いと感じるからである。

この古典的美、風格、霊性は三島としての文学者の力ゆえに為し得た頂点とすら思える。

それは、この作品が隠された遺書として著されたものだからであろう。

しかし、この巻のラストシーンを描く事で、すでに三島は文学世界から消え去ってしまった・・・・・・

これ以降の三巻・四巻の無残な文章を見るとき、文学に対する情熱が少しも感じられず、哀しくなるのだ。

関連レビュー「地獄に堕ちた勇者ども」:hirahi1.seesaa.net/article/440749343.html

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posted by ヒラヒ at 19:00| Comment(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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