2014年10月27日

魔女っこ姉妹のヨヨとネネ

アニメの表現力または「語るもの」と「語られるもの」



評価:★★★ 3.0点

日本アニメと魔女、魔法ものは切っても切れない関係にあります。
特に魔女ものは、男の子のヒーローものと呼応して、女の子達の「夢」として確固たる地位を築いてきたように思います。

この、映画も実に「魔女」路線の王道であるように感じました。
しかし、見ているうちにこれはイカガなモノかという疑問がわいてきたのです。

ストーリは感動的で、出てくるキャラクターも可愛いし、映画的におかしな所もないのです。
私個人としては、十分楽しみましたし、感動しました。

しかし、ど〜も違和感が拭えません。
そのとき「つまんな〜い」という声が聞こえてきました。
「難しくて、よくわかんない」という言葉もあります。
この言葉は、小学校高学年と思われる女の子のものです。

違和感の正体が、この小学生の感想でわかったような気がしました。

それは、「語るもの」と「語られるもの」の関係ということです。
何か分かりづらい言い方で、恐縮なのですが・・・・・・

言わんとするところは、このアニメの絵柄や魔法やキャラクターなど表現物=「語るもの」の総ての方向が子供向けの顔をしているにも関わらず、テーマやストーリーなど=「語られるもの」は子供には理解できないような高度な内容に成っているように感じたのです。

実はこの「語られるもの」に制限をしない事こそ、日本アニメの強みでした。
手塚治虫の昔から、マンガの絵がもつ吸引力で人を呼び、実際は書きたい話を自由に描く伝統が有ったようです。
その自由さは、明らかに長所には違いありません。
世界中を探しても、アニメによってどんな話でも描けるのは日本アニメだけですし、その結果として今やアニメのスタンダード=世界標準となり得たのです。

しかし最近の日本アニメ界は、何でも描けるのを良いことに、あまりにもイロイロ詰め込む傾向がないでしょうか?

この映画に関しても、魔法や勇気やネットワークやゲームや異世界や、そして愛が溢れんばかりです。
私はなんとか、ついて行けました。
そして結果的に感動を手に入れました。

しかし、先ほどの小学生のように「ワケワカンナイ」となっても、何の不思議も有りません。

これは実は危険なことだと思うのです。

「語るもの」=アニメ・マンガ絵は大変強い訴求力・引力を持っています。
例えば「ブラック・ジャック」を想起すれば、生命哲学の意味が分からなくても一気に読ませるぐらいのパワーがあることを、納得してもらえると思います。

しかしその「語るもの」の力に寄りかかってしまえば、「語られるもの」の精度が緩くなるのではないでしょうか。
「語るもの」を過信して何でも描けると考えてしまえば、最終的には「語られるもの」は作家の自由気ままにならないでしょうか?

そこで思い起こすのは、かつての「日本映画」です。
黄金期を作りながらも、作家主義に走ったが故に「TV」の大衆迎合のまえに脆くも消え去ってしまいました。
作家主義の怖さは、小津、黒澤などの天才が滅多に現れる存在ではないという事実だけで、十分未来を予見しえるはずです。

このままいくと日本のアニメ界も、かつての日本映画界と同じ道を歩むのではないかと、心配になってきます。

ディズニー・アニメほどマーケティング主導にしろとはいいませんが、「語るもの」と「語られるもの」の刷り合わせを、もう少し研究すべき時期に来たのかとも思います。



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posted by ヒラヒ at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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