評価:★★★★ 4.0点
英国的な映画だと感じます。
単純に言えば、18世紀末のイギリス社交界を舞台に、貴族のお坊ちゃんと庶民の娘が相思相愛になるお話です。
そのお互いの意志が確認されるまでの紆余曲折に、プライドや偏見が入り混じって、恋愛の進行を妨げられて、さて二人の運命や如何にというものです。
この原作はイギリス文学の古典であり、女流作家の描く恋愛小説の古典でもあるでしょう。
ほぼストリーは原作通りだそうです。
それゆえ、現代から見れば平板な印象ではあります。
さらに俳優陣も、ジュディー・デンチやドナルド・サザーランドなど実力派をそろえ、主人公のキーラ・ナイトレイも、若干現代的な笑い顔に違和感を感じますが、新鮮でみずみずしく魅了されます。
しかし、私としてはこの映画から受けた、一番の感銘はストーリーよりも俳優よりも、その英国的な佇まいにありました。
風景の表現、抑えた演技、静かなカメラワーク、古典的な音楽、様式的な画面構成、そして全体として現われる「簡素な美」に魅了されます。
例えば、同様の社交界を舞台にした映画はヨーロッパ各国で撮られています。
そんな映画達を見ていると、それぞれの国民性が見えるような気がします。
例えば、フランスであればどこかロマンチック、スゥイートなデコレーション・ケーキのような味付け。
イタリアであれば、伝統と宗教観にもとずいてファンタジック、まるでちょっと苦いチョコレート・ケーキの味わい。
ではイギリスはといえば、イギリス貴族文化に則ったダンディズム、どこかマフインのような乾燥した舌触りを感じます。
この男性的な、どこか現実的な切実感のなさ。
どこか硬質で、甘さのない質感。
どこか儀礼的でいながらシニカルな印象など。
この英国の上流階級の文化の持つ、独特の味わいは何に起因するのでしょうか。
例えば、フランスのロマンチシズムは現実を更に楽しいモノにしようという、希望があるでしょう。
例えば、イタリアのファンタジーの根本には、世界が大いなる力によって統べられているという運命論がないでしょうか。
そう思うとき、イギリスの表現には希望も運命もないのだという事になるでしょう。
逆に希望を欲しがる人とは、現実に満足していない人に違いありません。
また運命に対する信頼を必要とする者とは、過酷な運命の理由を求める者でしょう。
では、現実に満足して過酷な運命に関わらない者が語る話が、英国の表現だということになるでしょう。
たとえば、この映画におけるジェントリー、領地持貴族こそそんな人たちだった様に思います。
この人たちは働くのは恥と思って、生きることは楽しむことだと考えていたようですから・・・・・・
そんな現実の苦労を知らない彼等にしても、避けられない問題が有ったと想像します。
それは、退屈です。
実はこれこそ、究極の問題ではないでしょうか。
そんな退屈を紛らわすための物語が、夢や熱意や苦悩を伝えられない、伝えないのは必然ではないでしょうか。
それで思い出すのは、「千夜一夜物語」です。
この物語は、愛を信じられないアラブの王様が一夜限りで伽の娘を殺していくのですが、それを止めるためにシェラザードという娘が面白い話をし続けいつしか王の無聊を慰めるというものです。
そんな、愛も夢も希望も無い王のような英国貴族達。
その貴族達に供された千夜一夜物語の結実が、この映画のような「英国貴族」の物語様式なのだと思います。
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