2020年10月13日

映画『マルホランド・ドライブ』意味不明だから傑作なの!考えるな感じろ!/解説・考察・シュルレアリズム・簡単あらすじ

映画『マルホランド・ドライブ』解説・考察 編

原題 Mulholland Drive
製作国 アメリカ・フランス
製作年 2001年
上映時間 146分
監督・脚本 デイヴィッド・リンチ

評価:★★★★★ 5.0点




この映画の持つ、リンチ的世界観、迷宮と、酩酊を伴う、自己存在の不確実さの恐れを堪能できる一本だと思う。

しかしここに有る、映像的マジックは、実は戦略的に構築された迷路であるようにも感じる。

しかし、虚実入り混じったカオス世界の美しさは比類なく、その耽美に浸り得る人には、傑作として認められるはずである。

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<目次>
映画『マルホランド・ドライブ』ネタバレなし簡潔あらすじ
映画『マルホランド・ドライブ』予告・出演者
映画『マルホランド・ドライブ』感想
映画『マルホランド・ドライブ』考察
映画『マルホランド・ドライブ2』解説/シュルレアリズム映画紹介

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映画『マルホランド・ドライブ』簡単あらすじ

ハリウッド近郊の曲がりくねった道マルホランド・ドライブは夜闇に閉ざされていた。そこを走る車内、1人の女(ローラ・エレナ・ハリング)が突然、運転手に襲われ、抵抗するうちに車は事故を起こした。負傷しながらも逃げた女は、ある高級アパートの一室に隠れた。女優志望のベティ(ナオミ・ワッツ)は、叔母を訪ねてハリウッドに来た。大女優である叔母ルース(マヤ・ボンド)の部屋には大金を持ったリタ(ローラ・エレナ・ハリング)と名乗る記憶喪失の女がに居た。ベティーはリタの記憶を取り戻そうと調べ始め、同時に新進監督のアダム(ジャスティン・セロウ)と知り合い、交際を始める。そんなある日、リタに「ダイアン・セルウィン」という名前が浮かび、ふたりはダイアンを追いその家を突き止める。しかし、そこには腐った女の死体があった・・・・・・そしてベティーとリタ2人の秘密の鍵が解かれた―
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映画『マルホランド・ドライブ』予告

映画『マルホランド・ドライブ』出演者

ナオミ・ワッツ(ベティ・エルムス/ダイアン・セルウィン) /アン・ミラー(監督の母、ココ)/ジャンヌ・ベイツ(イレーヌ)/ダン・バーンバウム(イレーヌの友人)/アンジェロ・バダラメンティ(ルイージ・カスティリアーニ)/ローラ・エレナ・ハリング(リタ/カミーラ・ローズ)/ジャスティン・セロー(アダム・ケシャー)/ロバート・フォスター(マクナイト刑事)/メリッサ・ジョージ(カミーラ・ローズ)/マヤ・ボンド(ルースおばさん)/マーク・ペレグリノ(ジョー)/パトリック・フィッシュラー(ダン)/ヴィンセント・カステラノス(エド)/ボニー・アーロンズ(浮浪者)/ロリ・フーリンス(ロレイン)/マイケル・ジェイ・アンダーソン(ミスター・ローク)/ビリー・レイ・サイラス(ジーン)/メリッサ・クライダー(ウィンキーズのウェイトレス)/ジョアンナ・ステイン(12号室の住人)/ジーノ・シルヴァ(ホテルのマネージャー/エムシー)/リチャード・グリーン(魔術師)/リー・グラント(ルイーズ)/コリ・グレイザー(青い髪の女)/レイパエッテ・モンゴメリー(カウボーイ)/チャド・イベレット(ウディ・カッツ)/レベッカ・デル・リオ(自演)/リタ・タガート(リニー・ジェイムス)/ミシェル・ヒックス(ニッキー)/エリザベス・ラッケイ(キャロル)/ブライアン・ビーコック(バックシンガー)

映画『マルホランド・ドライブ』受賞歴

カンヌ国際映画祭 監督賞(デヴィッド・リンチ)
セザール賞 最優秀外国映画賞
全米映画批評家協会賞 作品賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 作品賞
ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞(デヴィッド・リンチ)

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映画『マルホランド・ドライブ』感想


いきなり別の映画の紹介で恐縮なのだが―
デビッド・リンチに『ストレイト・ストリー』という監督作品があって、本当に「ストレート=真直ぐな」話なのだが、正直面白くなかった。
『ストレイト・ストリー』予告

まるで、リンチ的な迷宮感がないのである。

しかし、それでわかったのは、デビッド・リンチというのはヒネクレタ変人に違いないという事だった。
つまり『ストレイト・ストリー』のように普通に話せるくせに、わざと訳の分からないことを囁いているのだ。

こういう人の言葉をそのまま信じてはいけない。

ヒントや答えがどうとか、犯人がどうとか、その意味する映像は裏を回って正面だったり、言葉は嘘の塊で、音楽が印象的なくせにただのフェークとして流れたりする。

勿論、監督が意図を持って戦略的に混乱を作り出していると考え、その混乱を再構築し「ストレイト・ストリー(真直ぐな話)」に直そうと試みるのは、見る者の自由だ。
 
しかし、例えばピカソがゲルニカの絵を反戦の意志を持って描いたとしても、どう見るかは個人に委ねられ、作者の表現しようとした意図に添おうと添うまいと、どちらでも構わない。

何故なら、すでに現代絵画が具象を捨てて、色と形象の純粋な大海に乗り出した時に、描かれたものと現実のものとの間に、対応する正答は失われたのだ。
書き手がどう理由をつけようが、描かれる絵とそれに対応する答え=「表現者と観賞者の間に共通の了解事項の成立」はありはしないのだ。
関連レビュー:現代絵画の具象性喪失の理由とは?
『魂のジュリエッタ』
フェデリコ・フェリーニの芸術性の高さを証明する作品
魔術師フェリーニのビジュアルセンス


つまり近代絵画にあるのは、絵に対応する、画家も含めた見る人の数だけ違う、心的印象が全てだと断言したい。
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そして、デビット・リンチの映画も俳優が出てストーリーが語られているように思うから混乱するのだ。

ただ目の前の映像シークエンスを抽象絵画のように眺め、その目前の光景が己の心をどう刺激し、結果として生まれる自らの心に映った心象の有り様を、純粋に見つめるのが正しいのではないか。
つまりリンチの作品は、抽象映画(今勝手につくった)として優れていると、個人的に解釈している。

しかしそう割り切っても、リンチ実体験から言えば、実際に目前で繰り広げられている映像自体の歪んで、捩じれた、不安定な、撹拌された混乱に脳が呼吸困難に陥る思いに襲われる。

観客の内面に生成された内的映像と、映画内で現れた映像はともに、虚であり実であり、さらに現実世界の実像と呼ばれているものが、所詮は脳内で再構築された虚像にすぎないとき、結局現実世界とは何なのかという、合わせ鏡の無限ループに溺れそうになる。
そんな混乱した自己に生成された酩酊感を見つめる映画だろう・・・・

その背後には、この変な人(デビット・リンチの事)が困っている館客を見て「ヒッひっひっ」と笑っている姿を想像して悔しがるのが、正しい鑑賞法だと思う。

だってしょうがないでしょう、この混乱がかくも美しいのだから。

ちりばめられたカオスの果てに自らが万華鏡の中でさ迷うような浮遊感覚の甘美さを知ってしまったのだから・・・・・・

特にこの映画は、ドラッグの酩酊感に似た、リンチ感をたっぷり味わえます。
そうした酩酊の果てには、自らの心の迷宮でさ迷う、もう一人の自分を見出すでしょう・・・・
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映画『マルホランド・ドライブ』考察


この作品に関して、映像が現実の情報であることを担保していないという点で、抽象絵画のような「抽象映画」と書いた。

しかし、映画というものはアニメを除けば、基本的に現実世界の事象を映している。

そういう観点から見れば、むしろ絵画の業績で言えば「シュルレアリスム」に似ているというべきだろう。
シュルレアリスム(仏: surréalisme、英: surrealism)は、戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動である。すでに1919年から最初のシュルレアリスムの試みである自動記述が行われていたが、1924年にブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、運動が本格的に始まった。ブルトンはこの宣言でシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した。(ウィキペディアより)


malh_froid.jpg上の説明を受けて言えば、シュルレアリスムとは、近代に至り精神分析学の祖ジグムント・フロイト(写真)が説いた人間心理の深奥にある、無意識に到達しようとする試みである。

近代以前、人間にとって大事なのは、悟性であり、理性であり、それは全能の神に近づくための唯一の正しき道としてあった。
しかし、キリスト教的絶対神が揺らぎだしたとき、世界は途端に不明確で不安定な姿を人々に見せ始める。
自然界に限らず、人々それ自身も、自分が神の現身ではないことを知ると、その存在の本質を改めて規定せざるを得なくなった。
もし人間の精神が、神につながっていないとすれば、その根源はどこにあるのか?

その疑問に対し、フロイトが唱えたのが「無意識=理性に隠ぺいされた情動」だったのである。

そして「無意識」を白日にさらし、人間精神の根源を露わにすることこそ「シュルレアリスム」の目的だった。
理性という人間精神にとっての「強固な番人」を打ち崩すために、シュルレアリスト達は技法「オートマティスム(自動筆記)」や「コラージュ(異物結合)」を駆使し無意識に到達しようと試みた。
<シュルレアリスムの技法>mulho_miro.jpg
左:オートマティズム技法の画家ホアン・ミロ/右:コラージュ技法の画家ルネ・マグリット

こうして、ありえない現実の組み合わせで、理性の合理を打ち砕こうとしたり、理性が働く前に運動として描く事で、古典的「真・善・美」に裂け目を入れ、見る者の無意識下にある情動を揺り動かし、本来の自己へと到達する道を拓く。

シュルレアリストとして有名な画家サルバードール・ダリは、その目的に向かって現実世界の事物をコラージュし歪め、溶かし、変形して見せた。
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実は、彼は映画にも関与しており、ルイス・ブニュエル監督と共作の『アンダルシアの犬』(1928年)はシュルレアリスム映画として高く評価を受けている。
<『アンダルシアの犬』予告>
しかし、その映画は映像の連続性と、映像のオブジェ的ユニーク性が、上手く融合していないと個人的には感じられる。

この点を突き詰めれば、映像シークエンスの中に生じる時間経過は、必然として物語性を生み、物語とはそもそも理性の領域に留まるだろう。

その「時間性=物語性」を、ダリのビジュアル・イメージが一時打ちこわしはするが、その理性の裂け目は、すぐに「映像シークエンス=時間」という理性で塞がれてしまう。

そして、ダリに関して言えば、映画に絡んでもう一つ失敗があった。
彼はヒッチコック監督の『白い恐怖』の中で、主人公の夢でうなされるシーンを、ダリ得意の溶ける時計などのオブジェで埋めたが上手く機能していなかった。
<ヒッチコック『白い恐怖』ダリのオブジェ>

ヒッチコック自体も、そのインタビュー本『ヒッチコック/トリュフォー映画術』の中で、その失敗を認めている。
トリュフォーはその失敗を、ヒッチコックの映画自体が悪夢的なので、むしろダリのオブジェは邪魔だったのではないかと分析している。
関連レビュー:ヒッチコック映画の秘密を探る!
ヒッチコック/トリュフォー『ヒッチコック映画術』
映画技術と映画愛がいっぱいつまった本
ヒッチコックの全映画の秘密をフランスの巨匠トリュフォーが追及

僭越ながら、個人的意見を述べさせていただければ、繰り返すようだが映画という時間芸術は、絵画的静止イメージを乗り越え、「現実世界=理性世界」を現出してしまう事に問題があるのだと思う。

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つまり、映画によって「シュルレアリズム」の無意識的アプローチを生むのであれば、それは「物語性=時間・時制」を混乱させる事が一番の早道なのだと考えたりする。

その最も完成度が高い映画作品が、この『マルホランド・ドライブ』だ。
それゆえ、この映画を「ストレートストーリー」として解釈しようとする努力は、「シュルレアリズム」の機能からすればむしろ無用な働きかけだと、敢えて言わせていただく。

更に言えば、この映画のシークエンスの中にある耽美的な映像美が、時間感覚を混乱させる夢幻的な力を発し、更に観客の理性的判断を困難にする作用をしているだろう。
個人的には、この『マルホランド・ドライブ』は、人々の無意識を永遠に刺激し、自分自身と向き合うことを促し続ける「シュルレアリズム映画」の傑作として、後世に残る古典になると信じている。


蛇足になるが、この『マルホランド・ドライブ』の「シュルレアリズム」的アプローチ方法とは別の方法を、ヒッチコックの『サイコ』が表していると主張したい。

映画史上の古典として評価が確立している『サイコ』、しかしそのストーリーは、そのまま現実の事件を積み重ね、観客の注意を揺り動かし、ついには見る者の理性を機能不全とした上で、衝撃的なラストで人間心理の闇を開示する。
アメリカ映画:1960年
ヒッチコック『サイコ』
巨匠ヒッチコック監督の驚愕の傑作!!
サイコ・ホラーの地平を切り開いたパイオニア

つまりストーリー自体が「シュルレアリズム的アプローチ=無意識への道程」となっている点が「シュルレアリズム映画」としても、この『マルホランド・ドライブ』に劣らぬ傑作だと評価するゆえんである。

つまり、映画が「シュルレアリズム」を表現するためには、時間的な連続性を歪ませる「時系列的混乱」を生じさせるか、または人間心理を物語的にコントロールし「心理的混乱」を生むことで、その理性の壁を打ち崩すことが可能だと言いたい。

そして、それは「絵画的シュルレアリズム・アプローチ=静止的現実異化」とは違い「映画的シュルレアリズム・アプローチ=動的現実異化」として、違う方法論が必要なのだと信じる。
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映画『マルホランド・ドライブ』解説

シュルレアリズ映画紹介

上で述べた「映画的シュルレアリズム・アプローチ=動的現実異化」を表現した、人間の理性を打破し、無意識下に働き掛けると思える映画を紹介したい。

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『カリガリ博士』
ドイツ象徴主義のサイレント映画は、シュルレアリズ映画『アンダルシアの犬』より、そのビジュアル的な完成度も含め、更に強烈にシュルレアリズ映画として成立していると思える。
関連レビュー:サイレントのホラー
映画『カリガリ博士』
ホラー映画の歴史に名を刻む古典
ドイツ表現主義の代表作


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『カサノバ』フェデリコ・フェリーニ
この映画に限らず、フェリーニのビジュアルイメージの奔放さと濃厚さは、見る者の平衡感覚を失わせる。
イタリア映画:1976年
映画『カサノバ』
名匠フェデリコ・フェリーニが描く、世紀のナンパ師の一生
ドロドロコテコテの高カロリー映像!!


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『ファイトクラブ』デヴィッド・フィンチャー
この映画は一見ストレートな物語に見えて、実は現実を見事に異化して、自らが見てきたものが何だったのかと観客に自らの心の内を覗き込ませる。
アメリカ映画:1999年
『ファイトクラブ』
デヴィッド・フインチャーの描く大ヒット難解映画
ネタバレを含む徹底解説!ラストの意味はこれだ!


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『陽炎座』鈴木清純監督
その耽美世界はもはや現実世界を超えて、理性の働く余地さえない。ただ、目の前の光景に思考停止状態に置かれるうちに、己の無意識をさ迷う事だろう。
日本映画:1981年
映画『陽炎座』
鈴木清純・松田優作の耽美世界はシュールの海に誘う!
難解な作家的世界の解釈方法とは?


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『シャイニング』スタンリー・キューブリック
言わずと知れた戦慄の恐怖映画。考えてみれば恐怖ほど理性を超えて感情を揺さぶるものは無い。特にこの作品は映像の恐怖の意味を明らかに語らないだけに無意識を刺激する。
アメリカ映画:1980年
映画『シャイニング』
映画史に残る、ホラー映画の名作!!
キューブリック監督とジャック・ニコルソンの狂気


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『地下鉄のザジ』ルイ・マル
フランス的なモンタージュ・コラージュ。映像のポップさと、脈絡の無さは、映像的オートマティズム(自動筆記)という趣がある。
関連レビュー:映像コラージュの古典的代表作!
『地下鉄のザジ 』
フランス映画界の鬼才!ルイ・マル監督の実験作!!
少女ザジのハチャメチャなパリ観光!ポップでキュートなコメディ!?


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『羅生門』黒澤明
この映画はストーリーが、現実とはなにかと問い続け、観客の信じる現実を次から次へと覆す事で、自らの理性に疑いを生むシュールリアリズム的成果を生んでいる。
日本映画:1997年
『羅生門』
戦後日本の真実を問う黒澤映画の傑作
各国の賞に輝く世界的に高評価の古典


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『気狂いピエロ』ジャン・リュック・ゴダール
その映像表現は、コラージュ性や、色彩感など「絵画的シュルレアリズム」と、ストーリーの迷路性とモンタージュのジャンプによる不連続性の、「絵画的シュルレアリズム」を感じさせる。
フランス映画:1965年
『気狂いピエロ』
監督ジャン=リュック・ゴダールの代表作。
ヌーヴェル・ヴァーグの反米宣言!感想・解説・あらすじ・意味


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『パルプフィクション』クエンティン・タランティーノ
このスタイリッシュな映画は、実は「時間=時制」が入り組み、作品自体が過去の映画のコラージュだ。そのフィクションの積み重ねは、虚構世界の豊穣により現実世界を異化させる。
アメリカ映画:1994年
『パルプ・フィクション』

個性的な登場人物が織りなすストーリー
アカデミー脚本賞・カンヌ・パルムドール受賞作品


あなたも「シュルレアリズム」の海で、自らの無意識の底にダイブしてみないか?



posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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