2018年05月13日

映画『フライド・グリーン・トマト』ジェンダーに秘めた同性愛/あらすじ・感想・解説・ネタバレ・ラスト

青いトマトに蜜の味

原題 Fried Green Tomatoes
製作国 アメリカ
製作年 1991
上映時間 130分
監督 ジョン・アヴネット
脚本 ファニー・フラッグ
キャロル・ソビエスキー
原作 ファニー・フラッグ



評価:★★★★    4.0点



この映画の題名「フライドグリーントマト」は、青いトマトに蜜で下味をつけて、揚げる料理だそうです。
まだ青い果実の酸味と、蜜の甘さが相まって、甘酸っぱい青春の味なんて想像したりします。
この映画には、そんな若き時の青春の日々を生きた、二人の女性の姿が間違いなく刻み込まれ、佳品といってよい作品だと思いました・・・・・・・

映画『フライド・グリーン・トマト』ストーリー

ジョージア州に住む、エヴリン・カウチ(キャシー・ベイツ)は40代の専業主婦で、日々の生活に倦怠を感じていた。夫のエド(ゲイラード・サーティン)は、彼女よりもテレビの野球に夢中で夫婦仲は冷えていた。エヴリンは自己啓発セミナーに通ったりして、何とか現状打破しようと試みるが効果はなく、唯一の心のより所はチョコレートという悲しい日々を送っていた。ある日エヴリンは夫と叔母に会うため老人ホーム出かけ、そこに暮らす老女ニニー・スレッドグッド(ジェシカ・タンディ)と出会い、その昔話を聞くうちに、エヴリンは引き込まれて行った・・・・・
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今を去ること50年前のアラバマ州。男の子の服を着て、日々遊ぶ元気な少女イジー・スレッドグッド(メアリー・スチュアート・マスターソン)は、大好きな兄バディ(クリス・オドネル)の事故死によって人との交わりを絶つようになる。しかし、兄のガールフレンドだったルース(メアリー・ルイーズ・パーカー)だけは、イジーも受け入れた。愛する存在を失った2人は、お互いに心が通じ合い親友になっていった。
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そしてルースは結婚したが、夫フランク(ニック・サーシー)は家庭内で暴力をふるう男だった。イジーはルースが妊娠したことを知り、体を張ってフランクから奪い戻す。故郷で2人は大衆食堂ホイッスル・ストップ・カフェを開き、店は順調に繁盛していった。しかし、イジーのジプシーや黒人たちを差別しない態度が、人種差別主義者の反発を招いてしまう。そしてある晩KKKに襲われ、今やそのメンバーの一員となったルースの元夫フランクに赤ん坊を奪われそうになる。
しかしそのフランクが、車ごと忽然と姿を消した。そしてイジーが犯人として裁判にかけられる・・・・・・・・・・・・
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映画『フライド・グリーン・トマト』予告


映画『フライド・グリーン・トマト』出演者

エヴリン・カウチ(キャシー・ベイツ)/ニニー・スレッドグッド(ジェシカ・タンディ)/イジー・スレッドグッド(メアリー・スチュアート・マスターソン)/ルース・ジェイミソン(メアリー=ルイーズ・パーカー)/バディ・スレッドグッド(クリス・オドネル)/ジプシー(シシリー・タイソン)/エド・カウチ(ゲイラード・サーテイン)/ビッグ・ジョージ(スタン・ショウ)/フランク・ベネット(ニック・サーシー)/グラディ・キルゴア(ゲイリー・バサラバ)/スモーキー・ロンサム(ティモシー・スコット)/スクロギンズ牧師(リチャード・リール)/カーティス・スムート保安官(レイノール・シェイン)


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映画『フライド・グリーン・トマト』感想・解説



老婦人(ジェシカ・タンディ)が語る、第一次世界大戦前の南部の田舎町の昔語と、それを現代で聞く中年女性(キャシー・ベイツ)の様子が、フラッシュバックの形で語られます。

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その昔話を聞くうちに、キャシー・ベイツ演じるこの中年主婦が夫や世間に対して続けてきた忍従の生活から、自立に向けて歩みだすという物語です。

実際、主婦に扮するキャシー・ベイツの顔が最初くすんでいるのに、徐々に明るく美しくなるっていくところなんて芸が細かいと思いました。
この主婦を力ずけた老婦人の話とは、閉鎖的で差別のある時代に敢然と差別に立ち向かうボーイッシュな女性=イジーの話でした。

イジーは、その幼馴染の夫の暴力に苦しむ=ルーシーを救出し、共にレストランを経営し、黒人や、大恐慌で苦しむ難民など、虐げられた人々を助け、KKKに襲われても自らの意志を曲げない、強い意志を持って生きていきます。

大恐慌を背景にした映画は、その時代設定だけで人々が困難に陥っていることが明確になり、ドラマとして強い力を持つように思います。
関連レビュー:大恐慌を背景とした映画特集
『グランドホテル』と大恐慌映画
脚本グランドホテル様式を生んだ古典映画
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しかし、実はこの映画で語られている登場人物達は、どこかしら虐げられたり傷を持ったりしてる人たちに思えるのです。
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例えば、主人公のイジーは愛する兄を事故で失い、自らを兄に模しつつも「男」に成れない自分を抱え、生きている様に見えます。

もう一人の女性ルーシーは、結婚するものの夫の家庭内暴力に傷つき逃げてきた過去があります。
そして現代のキャシー・ベイツ扮する中年主婦も、映画内で語られる「子供部屋をいつまで残しておいても」という言葉から、子供を喪っていることが分かります。

この主婦は、その喪失の結果として摂食障害になり、また夫や世間から虐げられても当然という心境になっていると、勝手に想像しました・・・・
そう思えば、この映画の女性達は女性であることによる、社会的な痛みや偏見を、その身に負っているように思うのです。

そして、このジェンダー(社会的性の役割)を乗り越えてお互いに同姓同士で助け合う事で、社会から自立するという、抵抗の物語のように思います。
そういう意味では、『羊達の沈黙』と同様、フェミニズムの物語としての要素を持っていると感じます。
関連レビュー:レクター博士とフェミニズム
『羊達の沈黙』
アンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスター
アカデミー賞五冠に輝く大ヒット映画

その女性であるがゆえの、苦難に立ち向かう登場人物の姿が感動的です。

さらに個人的な印象で言えば、作中で明確に語られていないのですが、この映画のイジーとルースが「同性愛=レズビアン」の関係にあったのでは無いかと疑っています。
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(上:彼女は人生で一番の親友です。そして、彼女を愛しています。)

もし「同性愛」を視野に入れれば、「女性の自立」だけでなく「性的マイノリティ=少数者」の自立という部分も生まれてくるでしょう・・・・・・
しかしその反面、観客の共感を得にくいようにも思えます・・・・
映画として難しい所かもしれません・・・・

映画としての完成度は高いと感じていますので、小さな傷に過ぎませんが・・・・・

この映画の題名「フライドグリーントマト」は、青いトマトに蜜で下味をつけて、揚げるそうです。
まだ青い果実の酸味と、蜜の甘さが相まって、甘酸っぱい青春の味なんて想像したりします。

そしてまた、青い果実に蜜を塗るイメージは、性的な暗喩を含んでいるような・・・・・・・


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以下の文章には

映画『フライド・グリーン・トマト』ネタバレ

があります。

裁判にかけられたイジ―だが、フランクの死体が見つからず、証拠不十分で事件は迷宮入りした。その後もいっしょに暮らすイジーとルースは、店の仲間たちに囲まれ穏やかな日を過ごす。しかしルースは病魔に捕らわれ、残された子供をイジ―に託し息を引き取る。
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(上:体を大事にして、もしあなたにポーカーで勝つ人がいたら、身を固めて)

そんな物語を聞くうち、主婦エヴリンは自分の人生に前向きになる。
そしてニニーがホームを出た日、エヴリンは夫に反抗し、エヴリンと一緒に暮らすという自らの意思を貫いた。
迎えに来たエブリンに、ニニーはルースの夫がどうなったかを語った・・・・・・

フランクが赤ん坊を車で連れ去ろうとした時、駆け付けた召使のシプシー(シシリー・タイソン)がフランクを殺したのだった。
イージーたちは、黒人のシプシーを庇い、フランクの死体は肉片にされ、料理の材料となり証拠は消えうせたのだった。
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映画『フライド・グリーン・トマト』ラスト・シーン


エヴリンとニニーは、去り際にルースの墓を訪れる。
墓には手紙と、蜂蜜が入った瓶が置かれていた。


【意訳】ニニー:良かったわ。気分が良くなった。だって、あなたが思い出してくれる間は、あの人たちも生き続けるんですもの。あなたは私に、人生で最も大事なものを残してくれた。それが何だか分かる?/エヴリン:分からないわママ。/ニニー:友よ・・・・親友。/エヴリン:ああ/ニニー:見て!(ルースの墓。エヴリンは手紙を取る「私はいつでもあなたを愛しているわ-蜂のお気に入り」)イージー?イージーは生きてるの?/ニニー:ええ!そう!彼女はまだ外で蜂に愛され、蜜を売っているわ。時として、彼女を垣間見ることがあるの。/エヴリン:あなた・・・・たぶん、今日私たちは彼女に会えるかも。/ニニー:たぶんね/エヴリン:行きましょう。
ニニーナレーション:ルースが死んで、そして鉄道も止まり、カフェは閉店し人々は風の塵のように散った。それはただ騒がしい以上の場所ではなかった。しかし今振り返って見れば、カフェが無くなった時・・・・町の鼓動が止まったのだ。それは奇妙だが、こんなちっぽけな場所が・・・・・多くの人々を結び付けていたのだ。



posted by ヒラヒ・S at 13:34| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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