2014年08月18日

ノン・フィクション『零戦燃ゆ』柳田邦夫の描く零戦の闘い/日米の勝敗を分けたものとは?感想・解説

零戦の語る日本の歪み



評価:★★★★★ 5.0

ある時、負ければ終わりという野球を見ていたとき、エース・ピッチャーが連投し、その上延長戦も投げ続けた。肩で息をしつつ、よろめくように投球するその姿に、私は感動した。
そして、試合後そのチームの監督が言った「ここまできたら、エースと心中する積もりでした」という言葉に、なんて信頼の厚い良い監督だと、再び感動した。

この本は、柳田邦男が零戦の誕生から死まで、その全期間を膨大な資料を元に描いた真に労作というべきノンフィクションである。
大変長い作品だが、零戦の栄光と悲劇を描くだけでなく、日米における軍事思想や用兵の差、戦術と戦略の国家的選択、を詳細に描く。

この本では、全体戦争=「国家・国民の総力を傾注すべき近代戦争」の勝敗の帰結は、最終的に国家としてのシステムを規定する、国民性によって左右されたのだという事実が語られていると思う。

例えば日本海軍は零戦の仕様・要求値を、格闘戦に勝てるよう徹底的な軽量化を設計者=堀越二郎に命じ、パイロットを守る防弾板や燃料タンクの防火壁をはずしてしまう。
結果的に、ゼロ戦は格闘戦に強い、圧倒的な航続距離を持つ、第二次世界大戦初期において当時の世界基準を遥かに凌駕する性能を持ちえた。

対してアメリカ側の戦闘機は重量や性能を犠牲にしても、パイロットの命を守ることを最優先に考えて設計をした。
それゆえ、初期の戦闘においては格闘戦に勝てず、制空権を零戦に奪われる。
その反撃を期した戦闘機は、強力なエンジンパワーを生かして高い位置に駆け上がり、有利な位置から一撃を加えるという戦法を取った。
そして、それはまた米軍機の設計思想、パイロットの命を最大限守るという点から言っても、理に適った戦闘機となった。

結果的には米側は零戦の得意な格闘戦を挑まず、米戦闘機の土壌で戦う事を可能とする戦闘機を作り上げた。

その米軍機に対して、日本はついに有効な対抗機や戦術を作りえず、最終的に敗戦までその状態は変わらなかった。

しかし真に重要なのは、実際の戦闘機の優劣や戦術というよりも、根本的な用兵思想であるように思う。

零戦に代表される日本軍の、人命よりも戦闘力を優先する思想は、米軍の人命を守る事を優先した戦術の前に、敗北したのだ。
私はいろいろの要因が有るにしても、戦争の勝敗がこの個人の命を「軍組織」がどう考えているかによって決定づけられたと思う。

結局、ゼロライターと侮蔑されるほど簡単に被弾したときに火を噴くゼロ戦は、パイロットが脱出することすらままならなかった。
たいして、米軍機は多少の被弾ではびくともせず、仮に飛行不能となったとしても簡単に壊れない機体は、海上に浮き救助を待つことができた。

このように同じ衝撃力を持つ機銃弾だとしても、ゼロ戦と米軍機ではパイロットの損耗率がまるで違う結果となった。
そして、最初は拮抗した戦力が戦えば戦うほど、日本軍のパイロットが失われていき、ついには終戦間際においてはベテランパイロットがほとんどいなくなってしまう。

これは、なくなった英霊の名誉のために言うが決して操縦技術が米パイロットに劣っていたための結果ではない。
単純に戦闘機の機体が、命を守りやすいか否かという問題であり、同等の物理的な力が加わってもゼロ戦が壊れやすいが故の悲劇だったのである。

そしてついに素人同然の促成のパイロットが主体の日本軍は、最後は特攻攻撃しか取るべき道が無くなる。
それに対しても、日本人は本当に誠実に自らに求められた要求に答えていく。
自分の命が確実になくなる戦いをしなければならない、人間の心情は今となっては想像するしかない。
しかし、自分が死んででも守りたいものが有ったならば、日本人はその為に犠牲になることを受け入れる精神的な素地が有るように思う。

そんなことはないと考えるならば、この文章冒頭の一文を読んで欲しい。
このピッチャーの行動は明らかに自らの選手生命を犠牲にしてでも、帰属集団に献身したいという表れに他ならない。
そして、その姿に感動するメンタリティーとは、その価値観を共有していることを意味するはずである。

私は一人の日本人として誇りとともに思うのだが、協調性と集団規律を守ること、集団のために自己犠牲を厭わない事に懸けては、日本国民は世界一で有るに違いない。

しかし当時の軍部は再び言うけれども、根源的な間違いを兵として徴用した、健気で、純良な、献身的な日本兵に行う。
即ち一人の人間の命を無駄にしないという事が、近代国家の成立基盤であるにも関わらず、日本という国家は全体の、集団の、利益を優先した。
そして、歴史的な事実から見ればその集団利益の意味するものは、大和民族のためと云いながら、軍部の戦争指導者達の保身にすぎなかったと言わざるを得ない。
なぜなら、戦争指導部もまた小さな集団であり、その集団の立案した作戦が失敗だった場合、その集団の責任が問われることになるからだ。
そのため、退却という言葉を「転進」といったり、一度発した命令を取り消せないため「玉砕」を命じるという事態になるのである。

そんな、指導部、指導者達は絶対許されるべきものではない。
 
この本に書かれている通り、日米の戦術思想の差、個人を尊重するか否かの差異は、結局、個を優先した集団が勝利したことを銘記したい。


ここからは、この本を読んで個人的に感じた「日本」という危うさを指摘したい。
再度問いたいのだが、冒頭の一文に心動かされないだろうか?

しかしアメリカ国籍の英語教師は言った。
「あのピッチャーは間違っている。ここで肩を壊すのは自分の人生に対する裏切りだ。」
「この監督は何を考えているんだ。彼の選手生命を奪う権利などない。」
「このピッチャーも監督もクレージーだ。」

混乱した私は、彼と口論に近い会話を重ねた。そして最終的にこの英語教師は言った。

「個人の幸せのために、奉仕するために国家があるのだ。」

その言葉からすれば、例えばこの英語教師の国では「不幸だと感じる個人が国家・集団にNOを言い、そのNOの数が過半数を超えれば国家は動けない」という抑止力を持ちえるだろう。


しかし、私はこのピッチャーの姿に泣いた。
そしてその意味を考えるうちに、日本人というのは全体のために個人を捧げることに、美を感じる民族なのだと感じた。
そして、指導者は全体に献身する日本人を、集団的な利益のためといって犠牲を払わせる事に、抵抗感が少ないのだろうと経験的に感じている。

結果的に上記2点が結びついたとき、容易に、日本人全体が狂気のごとく集団を守る為に死に続けるだろう。

それは先の大戦で実証済みではないか?

この国、日本の形、日本の心は、戦争をすればフレミングのごとく自死し続ける、必然的要素を持っているといわざるを得ない。

だからこそ、先の大戦で命がけでそれを証明した英霊のためにも、この国は「戦争放棄」を掲げねばならない。



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posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | ノン・フィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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