2014年08月09日

映画『天国の約束』アル・パチーノの裏ゴッド・ファーザー/感想・あらすじ・解説・評価

イタリア系ハリウッド映画

原題 Two Bits
製作国 アメリカ
製作年 1995
上映時間 85分
監督 ジェームズ・フォーリー
脚本 ジョゼフ・ステファノ


評価:★★★☆  3.5点



この映画は、ハリウッド作品でありながらイタリア映画のように感じました。
例えば、タヴィアーニ兄弟、ベルナルド・ベルトッチ、ジュゼッペ・トルナトーレ、ヴィットリオ・デ・シーカ、エットレ・スコラ、フランコ・ゼフィレッリ、ロベルト・ベニーニ・・・・・
そんなイタリア映画界の監督達の作品に共通するのは、ウエットな情感、家族の絆、カソリック的な伝統、ノスタルジー、そして長い歴史の中に明滅する人の運命を俯瞰的に描いた重厚感、長大さ・・・・・・
この作品も、そんなイタリア映画としての伝統を引き継いでいるストーリーだと感じました。

映画『天国の約束』あらすじ


1933年、南フィラデルフィアの夏の日。
大恐慌で人々が困窮している時代。しかし12歳のジェンナーロ(ジェリー・バローン)は、新装の映画館「ラ・パロマ」に入場するための25セントで悩んでいた。仲良しの祖父ガエタノ(アル・パチーノ)に相談すると、最早裏庭に座りっぱなしに近い彼は、死期が近いことを悟って、自分が死んだら25セントやるという。
ジェンナーロは、そんないつになるか約束より、今日映画館の上映時間が終わる前に欲しかった。母ルイザ(メアリー・エリザベス・マストラントニオ)に頼んでも、苦しい家計を女手一人で支えている彼女に叱られる。ついに自分で稼ぐことを決意し、町に飛び出てお駄賃を得るために、東西奔走する。そんな中で、近所のブルーナ医師(アンディ・ロマーノ)や、その妻(ドナ・ミッチェル)など、近所の人々の人生に触れながら、25セントを求めて走り続ける・・・・・・・

映画『天国の約束』予告



映画『天国の約束』出演者

ガエタノ(アル・パチーノ)/ジェンナーロ(ジェリー・バローン)/ルイザ(メアリー・エリザベス・マストラントニオ)/ブルーナ医師(アンディ・ロマーノ)/ブルーナ夫人(ドナ・ミッチェル)/カルネラおばさん(メアリー・ルー・ロサト)/グエンドリーナ(ジョアナ・マーリン)/トゥリオ(パトリック・ボリエロ)


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映画『天国の約束』感想・解説



大恐慌のアメリカ、フィラデルフィアのイタリア人家族(コミュニティ)の一日を描きます。
主人公の少年は12歳で、この映画のオープニングではまだまだ子供のキャラクターを強く持っています。
新しく出来た映画館に行きたいがために、誰かの手伝いをして小銭を稼ごうと悪戦苦闘するのが、この映画の基本ストーリーです。


脇役として、主人公の今にも死にそうなオジイちゃんをアル・パチーノが演じていい味を出しています。
このオジイちゃんと孫の交流を通じて、イタリア系移民の苦闘と、それでも夢を追い求めることの大事さが主人公に伝えられます。

そして、この長い一日の終わりには主人公は少年期を脱し、大人の扉を開く事が象徴的に語られます。

そういう意味では、困難を乗り越えた先の少年の成長を描いた「スタン・バイ・ミー」や、「ニュー・シネマ・パラダイス」と同型の物語だと思います。

ホントにいい雰囲気なんですが、☆3.5です・・・・・

何かが足りない。
そんな気がしてなりません。
この映画の語り口は「イタリア」的伝統のたたずまいを持っているのですが、イタリア映画にあってこの映画にない要素があるように感じてしまったのです・・・・・・

2日をかけて3回見直して、ようやく足りない「モノ」が判った気がします。

それは「奇跡」と呼ぶのが、最も相応しい気がします。

イタリア映画には明示されなくても、どこか宗教的神秘がカトリック的な脊柱が、背景として有るように思います。
その背景を元に、どこか超自然的な神秘や、非現実的な出来事が語られ、それが物語のカタルシスとしての効果を産むようにおもいます。

そして、その「奇跡」が、この映画には希薄なように感じました。
その点で、少年の変化が強く劇的な力として、うまく伝わらなかったのかなと感じました・・・・・

これは、逆にいえば「アメリカ」という場所にその「奇跡」を産むパワーが無く、それゆえ「イタリア系移民」の苦闘につながっているのかなぁ〜なんてヘンな感慨を持ちました。

また、そのコジツケを広げれば「奇跡を産めない場所」であるからこそ、「自分達の力=暴力」で生きる場を確保せざるを得ず、それが「ゴッドファーザー」につながっているのではないかと考えたりします。

そう考えれば、「奇跡」を求めてアメリカに渡った、この映画の「アル・パチーノ」は「奇跡」を得られ無かったがゆえに消えていき、「ゴッド・ファーザー」の「マーロン・ブランド」は「奇跡」を得られ無かったがゆえに「暴力」に訴えざるを得なかった。

この二人は結局「奇跡」というコインの裏・表です。


そういう意味で、この映画はイタリア映画から奇跡を取り除いた「イタリア系アメリカ映画」というべき作品であり、この映画の伝達力の弱さは、「故郷」を遠く離れた「イタリア移民」たちの困惑の結果とも思えるのです。

半分冗談で言いますが・・・・・・自分が本来属するべき場所=故郷に住む人は、その土地の力=「地霊」によって守られているのではないか・・・・・・・なんて、田舎から出てきてあまりいいことがない私は、思ったりするのでした・・・・・

関連レビュー:『ゴッドファーザー



posted by ヒラヒ at 21:59| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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