2017年12月23日

オスカー映画『アーティスト』このサイレント表現はレイプか?/感想・解説・批判

映画『アーティスト』(感想・解説 編)

原題 The Artist
製作国 フランス
製作年 2011
上映時間 100分
監督 ミシェル・アザナヴィシウス
脚本 ミシェル・アザナヴィシウス



評価:★★  2.0点



ある「様式=スタイル」というものは、その様式によって必然的に導き出される、表現の限界を生じざるを得ない。
例えば絵画という様式は、2次元表現から自由であり得ないし、小説であれば言葉をその表現の基礎とせねばならない。
そしてこの作品は、「サイレント映画」という、現代では捨て去られた表現様式に則って作成された。

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映画『アーティスト』予告

映画『アーティスト』出演者

ジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)/ペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)/ジャック(アギー)/アル・ジマー(ジョン・グッドマン)/クリフトン(ジェームズ・クロムウェル)/コンスタンス(ミッシー・パイル)/ドリス(ペネロープ・アン・ミラー)/執事(マルコム・マクダウェル)/ノーマ(ビッツィー・トゥロック)/ペピーのメイド(ベス・グラント)/ペピーお抱え運転手(エド・ローター)/見物人(ジェン・リリー)/警察官(ジョエル・マーレイ)/フラッパー・スターレット(ジュエル・シェパード)/競売人(ベイジル・ホフマン)/キャスティング助手(ベン・カーランド)/質屋(ケン・デイヴィシャン)

映画『アーティスト』受賞歴

第84回アカデミー賞:作品賞、監督賞、主演男優賞、作曲賞、衣裳デザイン賞、5部門受賞
第65回英国アカデミー賞:作品賞、監督賞、主演男優賞、オリジナル脚本賞、撮影賞、衣裳デザイン賞、作曲賞、7部門受賞
第69回ゴールデングローブ賞:作品賞、主演男優賞、作曲賞の3部門受賞
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映画『アーティスト』感想



この「サイレント映画」というスタイルは、基本的に言葉を持たないがゆえに、現在のトーキー(音声入り映画)に較べ情報量が制限され、物語の説明が困難だ。
また、役者の演技はパントマイム的に誇張した演技とならざるを得なく、細かな心理描写が困難だったため、定型の物語を語ることになりがちでもある。

しかし、その情報量の少ない中でも、何とか表現力を高めたいと努力した結果、映画にとって命とも言うべき「モンタージュ技法」が発展する事となったと思える。
関連レビュー:近代映画を作ったサイレント映画
『戦艦ポチョムキン』
モンタージュを作ったサイレント映画
エイゼンシュタイン監督の映画史上に輝く古典

そもそも、映像と映像の「つなぎ」や「切り替え」といった「モンタージュ技法」とは、ストーリーと情感を映像のみで、如何に効率よく、確実に、迫力を持って伝えるかの試行錯誤の結果としてあった。
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したがって、ヒッチコックやチャップリンが「映画の全てはサイレントにある」と言うのは、モンタージュの技術がそこで確立されたという意味で解すべきであろう。(上:チャップリン/下:ヒッチコック)


そしてまた、ヒッチコックやチャップリンの映画を見るとき、たとえトーキーであってもサイレント映画の表現技術が効果的に使われているように感じる。
それは、例えば目線だったり、場面の俯瞰から人物に切り替えて位置関係を整理したり、そして何よりも役者の沈黙で多くを語りえる演出力に感動する。

<ヒッチコック『サイコ』シャワーシーン>

音量をオフにしても、迫力のある映像力に圧倒されるのは、サイレントの習練ゆえだと感じる。


そのサイレント表現には、例えば盲目の人が視覚以外の感覚が鋭敏になるというような、言葉がないが故の映像の強さが感じられる。
それは画家が、色という要素を捨て去った形で、デッサンを繰り返すことにより、形と線の揺ぎ無い姿を習得するのと似ているとも思う。

そんな映像的基礎力というべきものの高さを、この映画「アーティスト」にも期待した。
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結果から言えば、個人的には消化不良に感じた。

ここから先は、この映画の悪口とならざるを得ないので、この映画を貶されることに耐えられない方は、この先を、お読みにならない方がよろしいかとも思います。

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映画『アーティスト』解説・批判



この映画は確かにチャレンジ精神にとんだ作品だと思うし、作り手としての苦労も十分伝わってくる。
しかし映画として面白いかといえば、面白くない。
なぜ面白くないのかの確認に、何度も見るうちになぜかハラが立って来た。

女優キム・ノバクが、この映画の音楽の使い方を「レイプ」だと言ったというが、その言葉こそがこの映画の本質を言い表しているように思う。

キム・ノヴァクの『アーティスト』批判

キム・ノヴァクは自身が出演したヒッチコックの『めまい』の劇中曲"Scene d'amour"の『アーティスト』内での使用に関し以下のように批判した。
「これはレイプにほかなりません。私の身体、少なくとも女優としての身体が、『アーティスト』という映画によって暴行された気持ちです」
art-kim-novak.jpg「注目を集めるために、有名な作品の一部を乱用し、その作品が意図する以上に、新しい作品でより多くの喝采を浴びようとすることは、この業界に身を置く芸術家としてモラルに反することです。観客の感情を盛り上げるために『めまい』の愛のテーマを、『アーティスト』のクライマックスに使用したことは間違いありません。“死人に口なし”でヒッチコック監督や(主演男優の)ジェームズ・スチュアートは何も言えませんが、私が代わりに言います。恥を知りなさい!」(Variety誌より)

私は全面的に、キム・ノヴァクを支持したい気持ちで一杯だ。
たとえば物語は、ハリウッド・ミュージカルの傑作『雨に唄えば』を彷彿とさせる。
関連レビュー:ミュージカルの傑作
『雨に歌えば』
サイレントからトーキーへの過渡期を描く
ミュージカルの大スター「ジーン・ケリー」の代表作


しかしそれは、キム・ノヴァクではないが、かつての名作にストーリーの伝達を「肩代わり」させようという意図にも思える。
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本当にここぞというシーンに、かつての映画の断片が現れる。
問題はその引用に愛を感じられないのだ。

いうなれば過去の作品イメージは、この映画『アーティスト』の情報伝達力の不足を補うために、用いられる。

まるで子供が自分の力不足を、親に頼って補ってもらうようなものだ。
立派な大人であれば、年老いた親のために立派な家を建ててやるのが正しい態度ではないか。
本来、過去をリスペクトするとは、いにしえの業績を称え、更にその過去に新しい価値を見出すことであるはずだ。

そんな過去の映画達に対する愛情があるのであれば、ここまで自らの「アーティスト」という映画のために、宝石のような名作のイメージを奴隷的に使役するはずはない。

残念ながらこの作品は「エゴイスティック」な製作者の欲望に支配されているように思える。
そして、実は近年若い映画作家に、この映画同様の「エゴイスティック」な作品が増えていると感じる。
関連レビュー:現代のマニエリスム映画
『グランド・ブタペスト・ホテル』
オールスター出演のノスタルジームービー
監督ウェス・アンダーソンの技巧的作品

この映画が持つ月並みなストーリーに、ご都合主義のハッピーエンド。
この監督は、この映画を何のために撮ったのだろうと、問わずにいられない。
少なくともこのストーリーやテーマを伝えたいがために、この映画があるのでないことは明らかだ。
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とすれば、残る理由は一つ「サイレント映画」という技法を「もてあそび」たかったのであろう。
それは、サイレント映画としての技術が優れているかといえば、過去の映画の残滓をかき集めたようなこの映画に「サイレントの名作」との評価は与えられない。
がんばって誉めても「サイレント映画のパロディには見える」というところか。

そもそも冒頭でも書いたとおり、ある「表現スタイル」は必然的に不自由さと禁忌を、表現者に強いる。
良心的な表現者であれば、根源的には、その頭の中にあるイメージを、時空間に囚われずダイレクトに、見る者の脳に直接送り込むことこそ理想であるはずだ。
しかし、メディアのテクノロジーがそこまで達していないがゆえに、現状ある表現メディアを選択せざるを得ない。
これはサイレントの時代の表現者も、同様であったはずだ。
表現したい内容があって、しかしサイレント映画しか存在しない。
それゆえ、サイレント映画の表現を可能な限り追求・拡大せざるを得なかった。
その表現と様式との厳しい格闘の果てに、映画の技法が構築されていったのである。

やはりこう整理してみれば、この映画は表現者として人々に訴えるべき何物も持たず、また「サイレント」の技法を追求・拡大して現代的な表現として再構築したわけでもない。

ただ己の「エゴイスティック」な「サイレント映画の玩弄」を観客に見せ付けただけだと感じる。

やはりこれは、映画に対する恣意的な「レイプ」である。



posted by ヒラヒ・S at 18:10| Comment(2) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

映画『ポンヌフの恋人』フランス恋愛至上主義/あらすじ・ネタバレ・感想・解説・ラスト意味

愛の総力戦の行方



評価:★★★★  4.0点

この映画は、日本では純愛映画のような謳い文句で流通しているようだが、個人的にはそんなキレイな映画だとは到底思えない。
エゴとエゴがぶつかり合い、相手の魂を従属させようとする激烈な闘争こそ、この映画が描いていたモノではないか。
恋愛至上主義のフランス人が、愛に純粋や潔癖など甘っちょろい感傷を求めて、ど〜して真の愛に到達できようかと、そう強く主張している映画だと思いました・・・・・・・・


ポンヌフの恋人・あらすじ

ホームレスのアレックス(ドニ・ラヴァン)は、修理閉鎖中のポンヌフ橋にもぐり込み暮らしている。ponnufu-miti.jpg彼は、深夜酒を飲みながらパリの大きな通りを千鳥足で歩き、車に片足を轢かれ骨折する。通りかかった女が介抱した。それが失恋し、失明の危険もある眼病を患った、ホームレスの女画学生ミシェル(ジュリエット・ビノシュ)だった。ホームレスの移送バスに乗せられたミッシェルとアレックスは、施設病院へと向かう。
アレックスが足にギブスをはめ、久しぶりにポンヌフ橋に戻ってみると、自分の寝床にはミッシェルとその猫が寝息を立てていた。ponnufu-fire.jpgアレックスはミッシェルの画帳を開き、自分の肖像画を見つける。
翌朝その絵が欲しいと言うと、新しく描くとミッシェルは描き出したが、アレックスを見つめるうちに気絶してしまう。その飛び散る画帳の中からアレックスは手紙を発見する。そこにはミッシェルの元の恋人ジュリアンの事が書かれていた。

ponnufu-hun1.jpgポンヌフ橋にはもう一人浮浪者のハンス(クラウス・ミヒャエル・グリューバー)がいて、アレックスは睡眠薬や酒を貰ったりする仲だった。しかしハンスは強硬にミシェルを追い出せと迫る。アレックスは彼女が失明に至る眼病を患っていることを説明し、置いてくれと頼み込む。
アレックスは夜、手紙の差出人のミッシェルの友人宅に忍び込み、ジュリアンというチェリストとの恋の破局が原因で浮浪者になったと知る。
アレックスはミッシェルのために食べ物を調達し、拾ったラジオをプレゼントした。二人は共に寝床に入ったが、ミッシェルは性的な関係はまだ早いと拒んだ。アレックスは寝息を立てるミッシェルの横で、ハンスから貰った強力な睡眠薬を服用し眠るのだった。
アレックスはミッシェルを好きになり、ストーカーのようにミッシェッルの後をつける。そんなある日、地下鉄の駅でミッシェルが突然振り返った。とっさに身を隠すアレックス。ミッシェルは構内に響くチェロの音を聞き、ジュリアンだと確信したのだ。事態を悟ったアレックスは、ギプスを履いた足で必死に走り、チェリストを発見するとナイフで脅し追い払った。アレックスはミッシェルにチェリストは女だと嘘を言うが、ミッシェルは電車に乗り込むチェリストを見て自分も乗り込む。ミッシェルの手には銃があった。ponnufu-torain.gif離れた車両からジュリアンを覗うミッシェルはいつしかまどろみ、夢の中でジュリアンを撃ち殺し、驚いて眼を覚ますと電車内にジュリアンの姿はなかった。
ポンヌフに戻ったミッシェルは、アレックスと共に酒を飲み革命200年のパリ祭の賑わいの中、花火が上がる空に向けて銃を撃ちながら騒ぐ。二人は酒を飲み、狂ったように踊る。ついには水上パトロールボートを盗み、花火が両岸から舞い散る川を水上スキーをしながら疾走した。


パリ祭の翌日いつまでもいるミッシェルに、出て行けとハンスが迫る。ミッシェルは、住むところもないし、失明すると語る。眼が見えなくなる前に美術館で見たい絵があるというと、ハンスは自分はガードマンだったから夜忍び込めるといい、共に絵を見に行くことを約束する。ponnufu-huns.jpg実はハンスがミッシェルを追い出そうとしたのは、女の浮浪者が不幸になることを自分の妻で知っていたためだった。ハンスは、ホームレス生活は止めて、外で生きろと言った。
次の日からミッシェルとアレックスは睡眠薬を使いカフェや酒場で、周囲の客を昏睡させ財布を盗むようになった。そして、順調に金を増やしたミッシェルは、ある朝、橋を出てどこかに住めると口にする。それを聞いたアレックスはミッシェルの過失に見せかけてその金を川に落とす。怒り、落胆するミッシェル。
ponnufu-muse.jpgそんなある夜、ハンスとミッシェルは約束していた夜の博物館に忍び込み、ロウソクの火でレンブラントの絵を見る。そして、その絵の前で二人は固く抱き合う。
橋に戻ったミッシェルを、どこに行ったのかとアレックスは責め、ミッシェルとアレックスはお互い殴りあう。ponnufu-cut.jpg疲れ果てて共に横たわる、アレックスの腹には自分でつけた傷が血を流していた。その夜、ハンスは川に落ちて消えた。

そんなミッシェルも、彼女の眼が悪くなるにつれアレックスに頼り、二人は一緒だと口にする。益々眼が悪くなったミッシェルとアレックスが、寄り添いながら地下鉄を歩いている時、アレックスはミッシェルの主治医デスターシェ博士が「手術で眼が治るから連絡しろ」と呼びかけるポスターを発見する。そのポスターを剥がしたアレックスだったが、街にはいたるところにそのポスターが貼られていた。
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ミッシェルは駅一面に貼られたポスターを燃やし、地上のポスターを追いかけ、ポスター業者のバンに山積みのポスターを発見する。アレックスはそのポスターに火をつけると、消火しようとしたポスター業者も焼死してしまう。アレックスは事件現場から逃げ、ミッシェルの元へ帰る。戻ったアレックスの前でミッシェルのラジオから、ミッシェルを探す主治医の呼び掛けが流れてきた・・・・・


(原題 Les Amants du Pont-Neuf/英語題 THE LOVERS ON THE BRIDGE/製作国フランス/製作年1991/126分/監督・脚本レオス・カラックス)


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ポンヌフの恋人・解説・感想

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実はこの映画を純愛映画だという世評に違和感を持っていたのだが、ふと原題に眼をやったときこれが純愛の物語ではないと確信した。
なぜならその原題は「Les Amants du Pont-Neuf」で、直訳すれば「ポンヌフの愛人」という題となる。

この「Les Amants=ラマン」について、フランス在住のブロガーmoiさんにお聞きしたところ、倫理にもとる意味合いを含んだ「愛人」という言葉が相応しいとのお答えを頂戴しました、謹んで御礼申し上げます。
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moiさん運営のブログ
『パリ生活社ミルクとマカロン2』


フランスとパリの気取らない日常を記してらっしゃいますが、その日常がうらやましいほど豊穣で、思わずフランスに行きたくなる誘惑にかられてしまうブログです。


そんな愛人という言葉に含まれた汚れが、この映画には満ちていると思うのだ。
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このジュリエット・ピノシュ演じるミッシェルの不実さはどうだろう。

ジュリアンという恋人を、殺したいほど求めながら、アレックスの愛情を利用し、あまつさえ自分の愛をもちらつかせる。
このしたたかな駆け引きに、誠という言葉は蜃気楼のようなものだ。

こんなミッシェルの姿を見て、別の映画のヒロインを思い出した。
それは、オードリー・ヘップバーンの演じた「ティファニーで朝食を」のホリーだ。
ホーリーも猫と一緒に、愛を捨ててまで、ニューヨークの町を豊かさを求めて放浪した。
当ブログ関連レビュー:
『ティファニーで朝食を』
オードリーの反資本主義
愛と金のつなひきを描いた映画


実を言えば、誠実さを持ち合わせているのはアレックスの方だ。
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彼は、痛々しいほどにミッシェルを求めて、すがり付く。
それは最早、愛というよりも、子供が母を求める心理に近い。

このアレックスとは、生まれながら欠落し窮乏している存在だと描写されていると感じる。
その欠落を根源とするイノセントで純粋な渇望は「童貞=ヴァージニティー」の一直線のベクトルを持って、対象=ミッシェルに降り注がれるだろう。

そんなアレックスは、大人の恋愛を経たミッシェルが、自分に物足りないだろう事に気がついている。
ponnufu-alex.jpg彼女が恋人に再会してしまったら、再会せずとも失恋のダメージがなくなれば、さらには金銭的余裕を持って橋の寝泊りが不要になってさえ、もっと言えば性的な満足を得たとすれば、あっという間に自らの元を離れていく運命だと知っている。
つまりアレックスがミッシェルとつながる
手段は、ミッシェルを自らと同じ欠落した者としてとどめる事だった。

ミッシェルが健全になれば、アレックスはミッシェルを失うのである。
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本来ポンヌフ橋とは、ノートルダム寺院に程近い大都会パリのど真ん中のシテ島に掛かる橋であり、そのまま健全な世界へとつながる場所であった。

しかし、この映画の改修工事中のポンヌフ橋とは人々の中心に有りながら、絶対的な孤立にあったのであり、それこそアレックスそのものだった。
そんな哀しい橋の上で繰り広げられた、カーニバルのなんと刹那的で狂騒的なことか。
パリ祭の水上スキー

じっさいのところ、アレックスとは全身全霊を込めて、ミッシェルを傷ついた欠落した状態に貶めようと努力する存在なのだ。

再び問う。

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この二人の間にあったものを一体なんと呼ぶべきか・・・・・

とうてい純愛とは呼べないし、恋と呼ぶのもためらわれる。

結局、この壊れた橋の上で繰り広げられた、生まれつき壊れた男が、今壊れた女から「愛=利益」を得ようとする関係とは、足の引っ張り合い、おとしめあいだと感じられてならない。


こんな関係性を持った二人が、パリ祭の花火の中で狂騒的にハシャいでいる姿を見ると、刹那の欲望の交錯した一過性の関係でしか有り得なかったろう。

つまり、”ポンヌフの愛人”という題は、一夜購われた売春的な関係を描いた映画だという意味だったろう。

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しかし、間違えてはいけないのは、買ったのはミッシェルなのだ。

彼女が自らの健全さの、ほんの「一片」をあたえ、
一時アレックスを購ったのだ。

最初から欠落したアレックスという存在こそ、その身も心も売らざるを得ない男娼だったのだ。
つまりこの映画の前半で描かれたのは、ミッシェルの愛人となったアレックスの、捨てられることへの恐れと、精一杯の努力の姿だったと思えてならない。

この映画は、そんな旦那ミッシェルと愛人アレックスの、お互いの利害と欲と情がぶつかり合う、互いを支配しようと格闘する激烈な人間ドラマである。

しかし、これを「愛」と呼べるのかと、再度日本人の私は自問するのだ。
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本来「愛」とは、相互にとって喜びと平安を与えるもののはずだ。
「愛」によって家庭が形成され、「愛」によって子が育まれ、「愛」によって安心と平静な日々を送れるのではないか?

少なくとも、そんな日々の生活の基礎として「愛」が求められるのではないか。

正直言って、この映画で描かれたのはそんな「愛」の真逆の姿だったとすら感じる・・・・・・

そんな日本的な「」のイメージからすれば、この映画の語るところを上手くアピールしかねて、日本で映画を公開する際に「ポンヌフの恋人」というタイトルに、「純愛」というキャッチコピーを付けて世間に伝播したのだろう・・・・・・・


ponnufu-ame-po.jpgそれはまた、恋愛下手のアメリカでも同じ事のようで、そのポスターを見ると「THE LOVERS ON THE BRIDGE=橋の上の恋人達」で完全に「純愛」路線で訴えてる事がわかる。

しかし、ここに描かれたのは「愛」ではないと思った日本人の私ですら、この映画を最後まで見て思うのは、こんなお互いに殺しあうような「愛」が存在するのかもしれないという恐るべき想定だった。
もしかしたら、フランス人にとっての「愛」は、日本やアメリカで考える愛とは違う形で存在しているのではないかと思い始めたのである。

この映画のように、「愛」がエゴとエゴのぶつかり合いとして現れ、おたがいの全身全霊を注ぎ込み、ドロドロくたくたになって、その果てに両者が朽ち果てるような関係こそ・・・・
真の、究極の、敢えて言えば理想の「愛」なのかも知れないと、そう思いはじめている自分がいる。
そこには、かつてみた映画の影響もあったかもしれないのだが・・・・・
当ブログ関連レビュー:
『それでも恋するバルセロナ』
ウッディーアレンの描く恋愛映画
ラテンの国の愛の形を解説



つまりは、「愛」が日常の一部や水面下にあってはならない人々がいるのだろう。

たとえば、フランス人にとって、それは常に人生の上で響く花火のように、五感に響く存在として輝いてなければいけないのかもしれない・・・・・この映画史上に残る花火シーンを見ながら洗脳されていく自分が怖い・・・・


ホントにラテン系の人ってば・・・・・・

映画のラストに流れる、印象的な曲 レ・リタ・ミツコの歌う「Les Amants」

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以降

ポンヌフの恋人・ネタバレ

とを含みますので、ご注意下さい。
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(あらすじから続く)
自分の眼が直ると知ったミッシェルは、その晩アレックスと共に酒盛りをし、たちまち一本を空にする。そして二本目のワインを空けた時、そこに睡眠薬を混入しアレックスを眠らせた。
深夜眼を覚ましたアレックスは、橋に”アレックス、私は決してあなたを、本当には愛さなかった。私を忘れて”という書き置きを発見した。
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アレックスは自暴自棄になって、ミッシェルの銃で自らの指を吹き飛ばした。
そして、朝が来て警察に逮捕されたアレックスは、懲役3年を言い渡され収監された。
数年後その刑務所をミッシェルが面会に来て、あなたを夢に見た、忘れた事はないと告げ、出所する6ヵ月後のクリスマスの夜、ポンヌフ橋での再会を誓った。
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そんなミッシェルは眼の主治医デスターシュ博士の家に帰り、愛猫ルイジアンヌの名を呼ぶのだった。
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ポンヌフの恋人・ラストシーン

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ポンヌフ橋で再会した二人。昔のように酒を飲み、馬鹿騒ぎをした。
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そして、ミッシェルは言う・・・・もう帰らなければと。
ミッシェル:アレックス、帰らなければ 本当に死ぬほど疲れた/アレックス:それは嘘だ/ミッシェル:何?/アレックス:君は疲れてないだろ。/ミッシェル:いいえ疲れてる/アレックス:近くに小さなホテルを取ってある。ルイジアナという名前で君の猫と同じだ。/アレックス:ベッドで朝食をとろう/ミッシェル:愛してる。でも行かなきゃ/アレックス:どこへ/ミッシェル:そのうち言うわ/アレックス:なんで/ミッシェル:怒鳴らないで!ちょっと事情が・・・・時間がかかるの・・・・今夜は、言わせないで。/アレックス:冗談だろ/ミッシェル:私と付き合いたかったら我慢して。
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アレックスは叫ぶ「イヤだ!嘘つき!嘘つき!嘘つき!ミッシェル!」
アレックスはミッシェルとともにセーヌ川へと身投げした
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そして船に拾われる二人。
ミッシェル:土砂を売ってるの/船の夫婦:いいや、ただ運んでるだけだ。これが最後の旅さ/ミッシェル:どこに行くの/船の夫婦:ルアーブルまで/ミッシェル:ルアーブル。私達ものせてくれる/船の夫婦:なんとかなるよ/ミッシェル:一緒に行っても大丈夫? /船の夫婦:大丈夫だよ
船の舳先にたつ二人
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まだ暗いパリにむかってミッシェルが高らかに宣言する。
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パリよまどろめ!


この二人は地獄のそこまでもアムールを持って突っ走るのだろう。

・・・・・・スミマセンこの映画純愛かも知れません

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posted by ヒラヒ・S at 18:56| Comment(4) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

『気狂いピエロ』ヌーヴェル・ヴァーグの反米宣言・解説・あらすじ・ネタバレ・ラスト意味

ゴダールの懺悔



評価:★★★★  4.0点

初めて通った道がとても遠く長く感じられたのに、二度目にはさほどにも感じないという経験は無いだろうか。
このジャン・リュック・ゴダールの映画も「初めての道」と同じ迷走感や困惑を、見るものは感じるに違いない。
しかし、この題名の通り「気狂い」じみた混乱も、情報が整理されて慣れ親しんで見れば、二度目の道のように快適に歩む事が可能だと思う。
この映画の中に、個人的には明瞭な「道しるべ」を発見したと感じたので、そのことを書かせて頂きたい。

気狂いピエロ・あらすじ

フェルディナン(J・P・ベルモンド)は妻と娘を持つ家庭人。ある晩妻の付き合いでパーティーに行くことになる。彼はパーティに飽きて帰ったところ、昔馴染の女性マリアンヌ(A・カリーナ)に出会う。彼女の部屋で翌朝目を覚ますと、武器だらけの部屋に首から血を流した男の死体があった。しかしマリアンヌは日常通り、朝食を準備している。そんな部屋にまた別の男が入って来て、マリアンヌとフェルディナンは、ベランダから逃げ出し、車を盗みパリを逃げした。二人はマンガ“ピエ・ニクレ”と銃を持ち、マリアンヌの兄が待つ南仏へと出発した。途中で追っ手を混乱させるため、道端で事故を起こしている車の横に自分たちの車を並べ、火をつけ事故を偽装したが、その車に入っていた5万ドルの大金も一緒に燃やしてしまう。
それ以降も、金のない逃避行は続き、ギャング団の争いに捲き込まれたり、観光客に物語を語って小銭を稼いだりして二人は旅を続ける。海べリの家では無人島の漂流者のような自給自足の生活を送っていたが、マリアンヌは「こんな生活はイヤ」だと言い出す。そして街に来た時、アメリカの水兵相手に寸劇をして当座の費用を稼ぎ旅立とうかという時、彼女は知人の奇妙な小人に出会いアパートの一室に入り、小人をを鋏で刺し殺すし姿をくらました。フェルディナンがその小人の死体を発見した時、その部屋にギャングが現れ「マリアンヌはどこだ」と拷問される・・・・・・・・

(原題 Pierrot Le Fou/英語題 Pierrot the Madman/フランス/製作年1965/111分/監督・脚本ジャン・リュック・ゴダール/原作ライオネル・ホワイト)

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気狂いピエロ・感想・解説

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冒頭に書いたこの映画の「道しるべ」の一つは、映画序盤のパーティーシーンにあっただろう。

まずこのパ−ティーシーンには見逃せない、言葉がある。
それはまるで、ゴダール監督のこの映画に対する姿勢を代弁しているかのようだ。
「映画とは何か?」との問いに対し「映画とは、戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、そして死。要するに、エモーションだ」と答えている。
これは、映画をして現実に働きかけをするのだと言う宣言のように思える。
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このセリフを言うのが、ヌヴェルバーグ作家達から高く評価されていたアメリカの映画監督サミュエルフラー。
サミュエル・フラー(Samuel Fuller、1912年8月12日 - 1997年10月30日)は、アメリカの映画監督。
マサチューセッツ州ウースター出身。本名はSamuel Michael Fuller。17歳の頃から新聞社の犯罪レポーター、パルプ小説のゴーストライター、脚本家などの職に就いた。第二次世界大戦中、北アフリカからヨーロッパでの厳しい戦闘で勲章を得る。1949年に『地獄への挑戦』で監督デビュー。この時は、わずか10日間で撮影が終了したという。
自らの裏社会での経験、戦争中の困難な体験、そして米国南部での人種差別への取材などから、独特のエキセントリックな作風を生み出している。ほとんどの作品が独立プロダクションの中で低予算で早撮りで作られた。
アメリカではB級映画監督と見なされていたが、フランスなどでは高く評価され、後に米国本土でも再評価された。 晩年は、製作の本拠地をヨーロッパに移し、時にはヴィム・ヴェンダースやアキ・カウリスマキの作品などにゲスト出演した。
(wikipediaより引用)


さらにこのパーティーのシークエンスの、変化する色に注目してほしい。
それは赤・白・青と移り変わる。つまりトリコロール、フランス三色旗の色であり、このパーティーは当時のフランス社会を表していると感じられてならない。



彼ら壮年の男女は、車の話や、髪の毛の話を惰性の如く交わすだけだ・・・・
そんなフランス社会に対する、忌避感が主人公フェルディナンにあり、早々に疲れたと中座する。

kitigaipiero-mariannu.gifフェルディナンはフランス社会の保守層を嫌い、フランスの若者達と行動を共にする。
その象徴がマリアンヌであり、
フェルディナンは彼女と共に新たな地平を目指すが、それはフランス社会に背を向ける逃避行とならざるを得なかった。


では、フェルディナンはなぜフランス保守層から離脱しようとしたのだろうか?
kitigai-piero-car.jpgその理由は、マリアンヌの部屋に向かう車のカーラジオから流れるニュースが雄弁に語っていると思う。
そのニュースはベトナム戦争のニュースで”駐屯地の攻撃で、べトコンに115人の死者が出た”というものだ。


ここに、この映画のさらなる「道しるべ」が明瞭に提示された。
1965年当時アメリカが戦禍を拡大していた、ベトナム戦争が鍵だ。
ベトナム戦当時の、アメリカ政府とフランス社会に対するジャン・リュック・ゴダール的意思表明の映画だと、考えてみようというものだ。

そう考えて見ると、この映画にはベトナムに関わる記号がそこかしこに出てくる。
マリアンヌの部屋には死体があり、アメリカ軍用ピストル・コルト45が置かれている。
kitigai-pierrot-dead.jpgkitigai-piero-gun.png

さらに映画の中盤にはそのままずばり、ベトナム戦争の寸劇が繰り広げられる。
アメリカ人にベトナム戦争の劇を見せる二人

ノート:観光客は現代の奴隷だ/アメリカ船員:おいそこで、何やってんだ!/マリアンヌ:チクショウ!アメリカ人だ!/フェルディナン:大丈夫、計画変更だ。簡単な事さ。ドルをくれたくなるような劇を見せてやろう。/マリアンヌ:どんな劇?/フェルディナン:分らないけど、何か奴らがすきそうな物を。/マリアンヌ:分かった、ベトナム戦争よ。/フェルディナン:分った。ベトナム戦争だ。/ノート:アンクル・サムの甥VSアンクル・ホーの姪/アメリカ水兵:ああ好きだね、とってもいいよ、好きだ、いいよ、素晴らしい。/フェルディナン:俳優達に少しばかりドルを。/アメリカ水兵:知ってるかい、ベトナムはハード・・・/マリアンヌ:ピエロ、心配しないで。こうやって取るのよ/アメリカ船員:おい、何するんだ!/マリアンヌ:ケネディー長生きしてね!/フェルディナン:奴等をまいたぞ、裏に行こう/マリアンヌ:嫌よ、踊りに行くのよ。
板に書かれた落書きは、中国の毛沢東とキューバのカストロ議長、反米の二人の顔。

つまりこの映画は、フェルディナンが代表する当時のフランスの中核をなす世代が、ベトナム戦争、アメリカの暴虐に対して「ノン」を言わない状況を憂えた、政治的な作品だと解釈した。

kitigai-kiss.jpg実を言えばフェルディナンはマリアンヌから「ピエロ」と呼ばれる。
そのつど「違う、フェルディナンだ」と答えるクダリが、映画内で十回近く繰り返されるのだが、このピエロという言葉こそ「フェルディナン=フランス保守層」を端的に言い表した言葉ではなかったろうか。


この映画のフェルディナン達=ジャン・リュック・ゴダール世代とは、アメリカ文化にドップリとつかり「アメリカの正義」を信じてきた世代だったはずだ。
それは、ファシズムの圧制からの解放者として登場した、アメリカ合衆国こそ世界に平和と自由をもたらすと世界中が信じたのであるから、一人ジャン・リュック・ゴダールだけの問題ではなかったのだ。
当ブログ関連レビュー:
『勝手にしやがれ』
ヌーヴェルヴァーグ映画の歴史
アメリカ文化に対する愛着と反発を書いています。


そんなゴダール世代が、自らを形成してきたアメリカという国家にベトナム戦争で裏切られ、ここには、まるで己が「ピエロ=道化」ではないかという自嘲があるだろう。

kitigai-maria.gifそんなフェルディナンが愛したマリアンヌとは、フランスの若者達であると同時に、すでに不可分にアメリカと結びついた存在として現れてているように感じた。

それは、マリアンヌがしきりに語る「兄」とは、そのまま「アメリカ」を指すものだろう。
つまりは、もうアリアンヌ達若い世代のフランス人にとっては、生れ落ちると同時にアメリカ文化に囲まれ生きてきたのであり自らをアメリカ人と同人視しているという描写ではないか。


そんな、アメリカに裏切られた古いフランス世代と、すでにアメリカ人となってしまったフランス若者世代とに分断された、当時のフランス社会の悲劇の果てに、この映画の壮烈なラストがあったように思われてならない。

kitigai-jyann.jpgさらに個人的に思うのは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは「ハリウッド映画=アメリカ文化」のフランス的文化変換だったと信じている。
この映画はそんな「ハリウッド=アメリカ文化」に裏切られたジャンリュックゴダールの恨み節であるに違いない。

同時に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の反米宣言だと思えてならない。

Film.jpg
ま〜イロイロ書きましたが、けっきょく映画を見る醍醐味とは、来た事もない地を歩き「道」を見出す事以上の楽しみはないのではないでしょうか?

モチロンこの映画を「愛」で再構築することもできるだろうし「自然と文明」でも「戦争と平和」でも、見るものが自由に「道」を作れば良いと思うのです・・・・・・物語世界は無限の可能性を秘めて、目の前に広がっているのです。
その物語は、もはや自立的な「実存」を成しているのであり、よしんば作者であってもその世界を完全に読み取る事など出来ないし、たとえ作者がその世界の意味をどう語ろうと、それは作者の感じた一面に過ぎないと言い切っちゃいます。

だから映画ファン達よ、人の言葉にも作者の言葉にも惑わされず、迷わず物語世界に足を踏み入れよう!

そこに必ず、自分だけの道が、自分だけの映画が、発見されるに違いないのだから!

アンナ・カリーナの歌う「私の運命線」がカワイイ

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以降

気狂いピエロ・ネタバレ

を含みますので、ご注意下さい。
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kitigaipiero-gomon.jpgフェルディナンを拷問したギャング達が言うには、マリアンヌが仲間を殺し五万ドル持ち逃げしたという。
居所を知らない彼は解放されて、マリアンヌを探し歩いた。
やっと探しあててみると彼女は密輸団のボス、兄フレッドと一緒にいた。
彼女は、ギャングとの戦いにフェルディナンを巻き込んだ。
kitigaiPiero-batle.png
ギャングとの戦いの末奪い取った金を、マリアンヌと兄フレッドは持ち逃げした。
kitigaiPiero-Kiss.png
フェルディナンは二人がいる島へ、海を越え乗り込み二人を拳銃で射ち殺す。
kitigaiPiero-island.png

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気狂がいピエロ・ラストシーン

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フェルディナンは顔を青く塗り、赤と黄のダイナマイトを持って死へと向かう。
赤青黄とは色の三原色であり、全てを重ねれば太陽の光の色となる。
つまり、もともと自然の存在であったはずの人間が、思想や政治体制により分断される事で世界に戦いが生まれるのだという自嘲と悲劇を象徴するシーンだ。

ノート:芸術・死/フェルディナン:何と言うか・・・・気に病むこともない。(火をつける)俺はバカだ、クソ、クソ、死だ・・・・

上記のセリフに含まれた、矛盾と逡巡と狼狽は、人間存在が世界に不要だと達観しても、「死=人間の消滅」が本当に正しいのかと言う反問ではないだろうか・・・・・・

そしてフェルディナンの去った、静かな海にアルチュール・ランボーの詩『永遠』が、2人のセリフとして発せられる。
また見つかった
何が
永遠が
海ととけあう
太陽が


人がいなくなった跡には、分断や争いが消え、永遠の自然調和が広がっている・・・・・


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posted by ヒラヒ・S at 17:50| Comment(4) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする