2020年01月27日

映画『ダンサーインザダーク』これはハリウッド讃歌である!/感想・解説・受賞歴・ミュージカルと現実

映画『ダンサーインザダーク』(感想・解説 編)

原題 Dancer in the Dark
製作国 デンマーク
製作年 2000年
上映時間 140分
監督 ラース・フォン・トリアー
脚本 ラース・フォン・トリアー


評価:★★★★  4.0




この映画は世界中で、賛否両論を生んだ作品だ。
その批評を見れば、救いのない「鬱映画」として捉えるか、過酷な現実に対する「救済」を見出すかに、分かれるだろう。

その両者にあって、個人的には、この映画が現実に苦しむ者の「救済」を描いていると感じた。

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<目次>
映画『ダンサーインザダーク』予告・出演者
映画『ダンサーインザダーク』感想
映画『ダンサーインザダーク』解説/現実世界の救済とは?
映画『ダンサーインザダーク』解説/宗教と芸術の違い

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映画『ダンサーインザダーク』予告


映画『ダンサーインザダーク』出演者

セルマ(ビョーク)/キャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)/ビル(デヴィッド・モース)/ジェフ(ピーター・ストーメア)/ノーマン(ジャン=マルク・バール)/ジーン(ヴラディカ・コスティック)/リンダ(カーラ・シーモア)/オールドリッチ(ジョエル・グレイ)/サミュエル(ヴィンセント・パターソン)/地方検事(ジェリコ・イヴァネク)/ブレンダ(シオバン・ファロン)/ポーコルニー医師(ウド・キア)/医師(ステラン・スカルスガルド)

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映画『ダンサーインザダーク』感想


この映画に関しては、冒頭でも書いた通り、世間で言われている『鬱映画』との評価には賛同しかねる。

しかし正直に言えば、始めてこの映画を見たときには、打ちのめされ、息苦しく、精神的な負荷の重さに耐え兼ね、再び見る気力を奮い起こせなかった事を告白せねばならない。
どれほど「つまらない」映画でも、少なくとも2度は見る事を習いとする私がである。

その初見の衝撃は、かつて見た反戦映画『ジョニーは戦場に行った』や、ホロコーストの悲劇を描いた『ソフィーの選択』と匹敵する、強い負力を伴い胸に迫った。
関連レビュー:肉塊となった青年の絶望
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関連レビュー:メリル・ストリープ主演の鬱映画
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徹底的に救いの無い


この映画『ダンサーインザダーク』は、それらブラックホール映画と同じく、禍々しい闇を湛えているように思われ、再び近づくことをためらわせたのである。
そして、そのまま二度と見なければ、この映画は女性を苛め抜き被虐美を追及すると言えば聞こえが良いが、単に監督のサディズムを満たすために作られた作品と、片付けていたとも思う。

しかし、ラース・フォン・トリアー監督のもう1本の鬱映画『奇跡の海』を見て、自分の解釈が誤りだったのではないかと、気付かされた。
関連レビュー:ラース・フォン・トリアー監督の鬱映画
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現実にのたうつ人間に訪れた奇跡とは?
なぜなら、その映画には可憐なほどの、信仰心に溢れていたからである。

この『ダンサーインザダーク』も、『奇跡の海』同様、地獄のごとき現実にのたうち回る女性を描き、観る者を憂鬱にする。
しかしその過酷な現実の救済策として『奇跡の海』のように、神の恩寵や宗教的救済が示されない。

つまり、この映画は一見明瞭な救済が見当たらず、そのサディスティックな刺激のみ受け取ったがゆえに、初見ではこの映画の真意を発見できなかったのではないかと、自身の速断を危ぶんだのである。
どれゆえ、この作品にも「救済」が潜んでいるのではないかと疑い、私は二度目の鑑賞をせざるを得なかった。

するとやはり、『奇跡の海』と同様、『ダンサーインザダーク』の中に「救済」を見い出したと信じる。
しかし、ここには『奇跡の海』の「宗教的な救済」とは違う、「現実的救済」が描かれていると思え、その点にこそこの映画の真価があると感じた。
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映画『ダンサーインザダーク』解説

現実世界の救済とは?

主人公セルマは『奇跡の海』のヒロイン同様、不条理に満ちた現実の中で、次から次へ襲い来る不幸にもがき苦しみ、それを耐え続ける。
それは愛する者に対する献身ゆえに、その苦しみの渦中にあえて身を置き受難に耐える姿は、自己犠牲によって最愛の存在の安寧を願う、一種の「お百度参り」のような祈りの形に相似と見える。

『奇跡の海』ではその「現実世界の献身=祈り」に対して、「神という救済」が描かれ、愛する者に奇蹟をもたらした。
対して、この映画ではそれら「宗教的な救済」は現れない。

その神の代りに描かれている、現実世界の中から主人公セルマが見出した「現実的な救済」こそ、「ミュージカル映画」だった。

この『ダンサーインザダーク』の主人公は、自らの全身全霊を放り込むかのように犠牲にして、息子ジーンの失明を救うために全てを捧げた。
その苦しく過酷な現実を、この映画ではラース・フォン・トリアーの提唱で生まれた「ドグマ95」的な、手持ちカメラのドキュメンタリー風の手法で、その苦しみをよりリアリティーに富んだ映像とすることに成功している。
<セルマのビル殺害シーン>

そんな過酷な現実描写に較べ、ミュージカルシーンの描写の、何と安定して華やかな事か。
この映画の主人公セルマは、現実から裏切られ、現実に攻撃され、現実に絶望した時、その空想の中で輝かしいミュージカルが始まるのである。
<法廷でのミュージカルシーン>


いずれにしても、この映画を「鬱映画」と断罪する人々に問いたい。
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暗黒のような時間と、くすんだ光景に圧殺されそうな、そんな現実に苦悩したことは無いだろうか?
絶望と、諦念に、その現実を終わらせようと思った事は無いだろうか?
現実とは自からの願いを、裁断するギロチンだと感じた事は無いのだろうか?
もし、上の設問に全て否と答え得るのであれば、この映画は自分がそれまで知らなかった「過酷な現実」を見せられただけの「鬱映画」として総括すべきだ。

しかし、人生に絶望した事のある人間なら知っている。
人生は、ミュージカル映画ほどに輝やきはしない。
過酷な現実を忘れ、自らが求める「幸福な世界」に入り込むために、古代から人々は現実ではない世界を夢見てきたのではないか?

現実から逃避していると言われれば、甘んじて受け入れるしかない。
もっと現実と戦えと言うのも正論だろう。

しかし問う。
幼い我が子を失くした母親。
不治の病に、明日への命も保障されない者。
生まれた時から、その体が不自由だったり、恵まれない家庭環境にある者。
自らの過失で、大切な存在をこの世から消し去った者。
そんな人々に現実に向き合えと言うのは、あまりに過酷ではないか。

現実は、不公平で、不合理で、不条理に満ちており、個人の力では運命を切り開けない、そんな絶望が確かに存在しまいか。
そんな現実に苦しむ者、過酷な運命に苛まれる者、そんな者達が現実を逃避することこそ、この世の「救済」に他ならない。
関連レビュー:過酷な現実に生じる救済の映画
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幻であろうと、絵空事であろうと、その「救済」が無ければ一分一秒も生きられない。

そんな人々を救うために、「宗教=神」や「ミュージカル映画=芸術」があるのだと、この映画は厳粛に語っていると信じる。

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映画『ダンサーインザダーク』解説

宗教と芸術

これまで述べてきたように、この映画は『奇跡の海』と同様に、過酷な現実を生きる為の「救済」を描いていると思える。
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しかし、明らかにその両者が違うのは、『奇跡の海』では「神=現実を超越した存在=絶対者」によって、彼女の現実世界での労苦が浄化されたのに対し、『ダンサーインザダーク』では徹頭徹尾現実世界の中で完結している点である。

それは『奇跡の海』が、宗教的な約束としての「天国」の存在を予兆させるのに対し、この作品は現実世界の即物的な事象のみで完結し、古代から人が依存してきた「宗教=絶対的救済」の道は描かれないのである。
つまりこの映画では、現実の苦悩を現実世界のみで自立的に解消し得る可能性を求めて、芸術という「人為的に抽出された美」を、その救済の道として示したのである。

その現実的救済は、あたかも「鎮静剤」のごとく、一時その現実の労苦を和らげるだろう。
しかし、宗教的な救済の持つ「未来永劫の救い」に較べ、その救済は一時的に過ぎず、現世のみでその効用は喪われてしまうようにも思う。

なぜなら宗教とは、その根源に「現世の苦悩」が、「来世の幸福」を約束する概念であるとすれば、芸術や文学などの人文学的業績は基本的に「現世に働きかける」ための取り組みではなかったろうか。
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再び言うが芸術など、現世に「美」を生ぜしめようという試みは、来世の幸福を約束しない。

それゆえ、この映画『ダンサーインザダーク』の主人公は、ただ無残にこの映画のラストを迎えざるを得ない。
この来世に約束された救済の不在が、この映画の印象を陰惨にしている原因であるだろうと思える。
しかし、ここに「救済の約束」は本当に無いだろうか?

奇妙な事に、個人的にはこの映画のラストに、なぜか清々しさを覚えたのだ。
それは、この映画『ダンサーインザダーク』には『奇跡の海』で示された「来世での救済の約束」を、更に深化させた「現世での救済の約束」を見出したからだ。

実を言えば、『奇跡の海』で示された「来世での救済」も、実は現代の既存宗教を否定し、人間存在として無我夢中で現実と格闘する果てに、人として神性を獲得した結果としての奇蹟であったと理解している。
つまりは、既存の宗教が求める戒律や禁欲によらず、ただ人として現実世界と向き合い、真摯に他者を愛し求めた果てに、人は神をも招来し「来世での救済の約束」を獲得し得ると語られていただろう。

それは、人が正面から現実と格闘する姿にこそ、尊厳があるというメッセージであったと解釈した。

もし、その解釈が正しいのだとすれば、すでに現実と真摯に対峙する者には、本人は苦悩の渦中に在るにしても、もう現世で約束された救済の中にいると語るのは強弁に過ぎるだろうか?
しかし、現実世界での人の苦悩を語り、その闘う姿に崇高な美を見出してきた、近代芸術の創作物を見るとき、その中に「現実世界の永遠の美」として未来永劫残される事こそ、この現世の奇蹟ではあるまいか?

この映画の主人公セルマが歌うように、これは最後の歌ではないのだ。

生きとし生けるものの苦悩を、その現実に刻み美として開示するとき、同じく現実に打ちひしがれた者達を、その美は救済するだろう。
そして、その救済を受け入れた者は、また自らもその現実との苦悩の戦いを昇華する美を紡ぎ、次の世代へと「現世の救済の約束」を高らかに伝えるに違いない。

それこそ、ミュージカル映画が成して、カトリーヌ・ドヌーブが成して、今またラース・フォン・トリアー監督が成した、現世における奇蹟なのだ。
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現実世界に充足と安寧を見出せない人々にとって、その現実から理想世界への「架け橋」として「映画=芸術」は、今後千年を経ても「救済」として機能し続けるだろう。
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そしてその「現世の奇跡=映画」によって、多くの現実に不適合な人々が、間違いなく、自らを「救済」し得る「救世主」として「映画」という神によって救われたのである。
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もちろん、私もその1人である・・・・・・・



posted by ヒラヒ・S at 17:00| Comment(0) | デンマーク映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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